​世間における真理は、まさに「塞翁が馬」なのだと思うことがあります。


​私たちは何事につけても、右か左かで悩んだ末に一方を選び、


「ああ、反対の方へ行っておけばよかった……」と後から比較しては悔やむ生き方をしています。



​「あの時、買っておけば」


「あの時、会っておけば」


「あの時、行っておけば」


「あの時、走っておけば」



​けれど、もし「自分の思い通りにならない不確実性(あるいは死)」を最悪の前提として捉えて生きるなら、見え方はどう変わるでしょうか。


​極端な例かもしれませんが、会社に遅刻しそうだと青ざめながら走り、汗まみれで滑り込んだ電車で、予期せぬ事故やテロに遭遇するようなレアケースだって世の中には存在します。


​また、生きていれば「もし自分もあの人のように生まれていたら」と誰かを羨むこともあります。


例えば、どんなに容姿端麗に生まれても、危険な人に目をつけられて危害を加えられてしまう不幸もあれば、一方で容姿に恵まれなくても、あたたかい人間関係に恵まれて朗らかに一生を過ごす人もいます。


​万事は「塞翁が馬」なのだと弁えて生きていくこと。


それだけで、人生はほんの少しだけ生きやすくなる気がするのです。


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​「激しく後悔する」ということは、裏を返せば「地球の回転すら自分の思い通りに動かせる」と自惚れているということなのかもしれません。


​「ああしていれば、もっとうまくいったのに!」と後から悔やみ、腹を立てるのは、どこかで「何もかも自分の思い通りになって当然だ」という慢心が働いているからです。


​もちろん、私たちはただ無為に流されるだけの存在ではありませんから、その場その場での誠実な努力は大切です。


しかし世の中の予言が当たらぬように、未来のすべてを完璧に見通すことなど誰にもできません。


​「何事も思った通りにはならない」


求めても得られない苦しみ(求不得苦)は、仏教における一つの真理です。


私たちが目にする一つの出来事の背景には、実に無数の「因縁」が複雑に絡み合っているからです。


​焦って車を飛ばし、ギリギリの信号を渡っていく人たちを見ると、ふと「そんなに急いでも、この先のことは誰にも分からないのに」と思ってしまいます。


​目標に向けた弛まぬ努力は絶対に欠かせません。


ですが同時に、「一寸先は闇であり、命には限りがある」という世間の真理を心の片隅に置いておくこと。それが、上手くいかなかった時に自分自身を救い、心を少し楽にしてくれるお守りになるのではないでしょうか。


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​まあ、そう分かってはいても、ついつい色々と悔やんでしまうのが人間です。


それは、これまでの人生で培ってきた思考の「癖」が残っているからなのでしょう。


​修行を通して気づいたことと、日々の出来事に対する咄嗟の反応。


その二つを丁寧に擦り合わせて調整していくこと自体もまた、大切な「修行」なのだと感じています。