人生は

源泉掛け流しみたいなモノ



源泉掛け流しは常に変化している



同じ姿に見えるけど



常に変化している



新しい源泉が入り

古い源泉が流れ出ていく



人間も同じ



例え瞑想状態でピクリとも動かなくても



血は流れ、酸素は流れ、新陳代謝を止めない。呼気吐気を繰り返している。



思考も止まったように錯覚するだけで、常に流動している。



人間は源泉掛け流しみたいなモノだ(笑顔)



ノンデュアリティの視座から見ると



心は変化を

意味づけしたがる



納得のいく意味づけができないと



苦しむ(笑顔)



悟りを開いたみたいな爽快な感覚も



心の



一時凌ぎの意味づけに過ぎない



もし本当に悟ったなら



心を俯瞰している自分を定着させているので



ひとりで納得し、ひとりで笑い、ひとりで解決している



他人の評価は気にはしても、引きづられない



自身の評価を大切に生きている



誰も必要ないみたいな雰囲気だけど、大抵は誰かと笑い過ごしている



それが悟ったひと(笑顔)



保江先生などは、ドロドロの心をもそのままに楽しみ生きていた(笑)悪趣味に見える。



並木さんは爽やかに自分軸からしか動かない時間?を続けていた。



矢作先生は自身の評価には厳しく修行僧みたいに、戒めを清らかさとし過ごしていた。



はせくらさんは人類を飛び越えた「何者か?」で人間を過ごしていた(笑)



チエアートのチエさんは、自身を認めてからは自分評価をブラさないで過ごしていた。



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覚者は

自分評価で生きている


他者を無視しているわけでなく


自分評価と慈しみのバランス?

これが無為自然に取れている

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心は意味づけをしたがる



私という「目」が見ていると



心は無理に源泉を掻き回さなくなる



そうすると思考が



納得できる意味づけを導き出す



心とは、そういうものだ(笑顔)



「目」は、見てるだけ



この「目」を保江先生は「神様ののぞき窓」と呼んだのかな



源泉掛け流しは



じっとしてると



美しい