アムステルダムではスキポール空港で野宿し、翌日はドイツのケルンに移動しようとしたところ、なんとケルン行きのバスは紙一重の差で出発してしまい次の便は1週間後とのことだった。
仕方がないのでケルン行きは諦めて、どうしようかと作戦を練っていたところフランクフルト行きの夜行バスが格安だったのでそれに乗り、三たびフランクフルトへと降り立つことになる。その日はフランクフルト国際空港で野宿して翌朝カッセル行きのバスに乗り込んだのであった。
そんなこんなで到着したカッセルの町。3日連続で野宿や夜行バスのシートで過ごすと流石に睡魔と疲労でフラフラになってしまった。今日こそは何としてもベッドに横にならなくては・・・と、バスターミナルから安宿への6キロの道のりをなんとか気力を振り絞ってトボトボと歩いていた。
なぜカッセルなどという田舎町を選んだのかというと、ここはあのグリム兄弟がその生涯で最も長く過ごした町であり、この町で兄弟は「赤ずきん」や「白雪姫」、「いばら姫」などの名作童話を次々と生み出したのであった。言わばカッセルは「グリム童話の故郷」なのである。
しかし、このカッセルという町。通りを歩いてみても何の変哲も無い町並みが延々と続いており、景色を眺めてもまるで面白味がないのである。それもそのはずで、カッセルは第二次世界大戦の最中で町の殆どが瓦礫の山と化してしまい、今ある町並みはどこを見回してみても真新しい近代的な建物ばかり。その上、やたらと坂道があるので安宿までの道のりを歩いていてホトホト嫌になってしまった。
旧市街らしくない旧市街を通り抜け、橋の上を歩いて対岸に渡り、一層つまらなくなった町並みの中を半ばウンザリとした面持ちで歩いていく。カッセルに着いてからというもの、どうも気が乗らないのが気になる。ここ3日間の移動や野宿の疲れのせいだろうか? 確かに3日間とも殆どバックパックを担ぎっぱなしで過ごしていたわけだけれど・・・。
しっかしまあ、なんという辺鄙な所にホステルを建てたものだろうか。橋を渡ってからというもの、どこを見ても車のパーツ専門店やら工場やらガソリンスタンドばかりでスーパーや飲食店などは影も形もない。どうやら町の郊外に出てしまったようだ。こんな所、とてもバックパッカーが足を運ぶような場所ではない。私はすっかりカッセルに来たことを後悔してしまった。
そうして疲労困憊しつつ、漸く目当てのホステルへと到着する。「sandershaus」という名のホステルだ。こんな辺鄙なところにあるだけあって、私の入った6人部屋には他に誰も滞在者がいなかった。しかし辺鄙なところにあるぶん料金は安く、この6人部屋のドミトリーで1泊17ユーロだ。8人部屋の方は15ユーロであったが、翌日分は既に埋まっているとのことだった。
やっとのことでベッドにありついた私であるが、部屋にバックパックを下ろした時には既に午後5時近くになっていた。道中、どこかにスーパーか飲食スタンドでもないかと目を凝らしたが、結局そのようなものはてんで見当たらない。やれやれ、また長い道のりを歩いて旧市街まで行って食料を調達するしかないのか。どうも先が思いやられるなあ。
ツイてない時は重なるもので、カッセルに着いてからというもの、どうも右足の調子が悪い。足を地面に踏み込むと鈍い痛みが走るのである。こりゃあ、痛風でもぶり返したか・・・。よりにもよって、こんな時に。3日間の野宿のストレスに加え、そういえばヨーロッパに来てからというもの水を飲む機会が殆どなかったのであった。喉が乾けばミネラルウォーターよりも安いビールを買って飲んでいたため、利尿作用で体内の水分が減少して尿酸濃度が著しく上がってしまったのだ。
はー・・・。こんなに草臥れて喉がカラカラだというのにビール1本すら飲むことができないとは。まあこれも自分の自己管理の甘さが招いた結果なので仕方がないのだが。旧市街でやっと見つけたスーパーで、パンとチーズ、バナナ、トマト、コーラなどを買い込んで広場のベンチに座って食べる。つめたいコーラの強い炭酸が五臓六腑に染み渡り、ひと息に飲み干して漸く人心地つくことができた。しかし、気分は暗澹としたものである。
うーむ、これは一体どうしたことだろうか・・・? このどことなく気の抜けた、いまいち気の乗らない状態がここ数日の間ずっと続いている。アムステルダムにいる時もそうだった。アンネの家を訪れるともう何もする気が起こらず、フラフラと飾り窓周辺を彷徨っては宿に泊まることもなく、空港で野宿してさっさとアムステルダムを後にしてしまった。
ヨーロッパに来てから3週間が経とうとしていた。初めのうちこそベルギーのブリュッセルやブルージュなどで実りのある旅をしているように思えたが、アントワープ辺りからは少しずつ気分が萎え始め、アムステルダムに着く頃にはすっかり気分が盛り上がらなくなってしまったのである。
こうしてアムステルダムからフランクフルトを経由してカッセルに来たわけだが、気分は一向に乗ることもなく、行く気になっていたケルンも結局は端折ってしまった。どうやらヨーロッパの旅に早くも飽きを感じつつあるらしい。
以前、ヨーロッパに来た時はまだアジアはおろか海外旅行すら殆ど経験のない駆け出しのバックパッカーだった。そのせいか見るもの全てが新鮮で美しく、何の特徴もない町に居てもただ散歩しているだけで楽しかった。「日本ではないどこかの国にいる」という事実だけで半ば満足していたのだ。しかし、ユーラシア大陸の国々を40ヶ国ほども駆け回り、数々のアジアの風俗や民族、文化などを目にしてきた今では、ヨーロッパのこの落ち着いた旅ではもはや満足できなくなってしまったのだ。
バンコクを発つ前に既にこの懸念はしていたが、いよいよもってそれが現実となってきたようである。せっかくこうして再びヨーロッパを訪れたというのに、以前のように手放しで喜べないオノレがなんとも恨めしい。
そんなフクザツな気分を抱きつつ翌朝を迎える。結局、この6人部屋には他に誰も泊まる者がなく、久しぶりに安寧なる夜を過ごすことができた。これでせめて酒でも飲めるとよかったのだが、ドミトリーでは1人だからといって油断していると夜更けにガサゴソと来客があったりするので注意が必要なのだ。やはり本当の意味で安らごうと思ったらシングルに泊まらねばなるまい。
朝早くに身支度を整えて早速外出することにする。今日はグリム兄弟博物館に行くのだ。だが、なんだか町の様子がおかしい。軒並みシャッターを下ろして、外を歩く人の姿も疎らである。・・・あれれ? おかしいな。カレンダーを見ても今日は平日である。一体どうなってるんだ・・⁉︎ と思っていたら何のことはない、今日はドイツの祝日だったのだ。これはすっかり見落としていたことだった。
そうか、祝日か! よりにもよって、今日が祝日とは・・・。これからは国が変わる度に、その国のカレンダーを見て祝日をチェックしなければなるまい。油断していると祝日に足元を掬われることになりかねないのだ。ヨーロッパの旅においては日曜と祝日は言わば天敵なのである。なにせ殆どの店とカウンターが閉まってしまうのだから。
交差点には、ささやかながらグリム兄弟の記念碑が立っていた。故郷ハーナウにある銅像と違って今ひとつ貫禄に欠けるのは、カッセル時代の若き日のグリム兄弟をイメージしているからだろうか。今から200年前、このカッセルには確かにグリム兄弟が存在していたのだ。
さっそく博物館の中に入ってみる。当時世に出ていた初期のグリム童話や世界で翻訳されている童話集、それにグリム兄弟たちの直筆の手紙やメモ書きなどが、こぢんまりとではあるがコーナーごとに別れて展示されている。
このグリム兄弟の人生もまたアンネの日記と同じく私が学生時代に大いに興味を持った媒体であるが、しかしこれも20年近くに及ぶ歳月がその詳しい内容を既に忘れさせてしまっていた。時を経た今となっては、もはやこれらの実物を目にしても当時のような興味や関心は湧き上がってこないようである。
グリムの名に惹かれてこのカッセルにやって来たものの、さして目を見張るでもなく淡々と見てまわる自分が何だか哀しい。当時の自分であったなら、きっとケースに張りつくようにしてじっくりと眺め回っていたことだろう。是非とも当時の自分にこれを見せてやりたかったものである。
博物館から出ると、外はいつの間にかどんよりとした曇り空になっていた。
丘の上からカッセルの町並みを眺め渡してみる。これはもしかすると予報どおり雨が降るかもしれんなあ・・・。
それから間もなくして雨が降り出してしまった。やれやれ、まだ正午過ぎだというのに。どうもカッセルでは本当にツイていないようだ。仕方がないので旧市街の開いている店に飛び込んでパンなどを買い込み、早々に宿へと引き上げることにする。こうなったら今日はもう宿に籠城だ。まあたまにはよかろう。今日も誰も来ずにドミトリーの部屋を独り占めできるといいのだが。
翌朝、カッセルを発つことにする。行き先はどうしようかと考えていたのだが、次の候補であるドレスデンではネットで安宿がうまく見つけられなかった。それにカッセルもご覧のとおりの展開であるし、ユーロは相変わらず高いしでもう西欧に対する執着心がすっかり飛んでいってしまった。
もうドイツを出てチェコに行ってしまおうか・・・と思っていると、ちょうど今晩プラハ行きの夜行バスがあるという。値段も23ユーロと格安なので、思い切ってプラハに行くことにした。バスは23時45分発、今日は丸一日どうやって過ごそうか。
今日は朝からどんよりとしているが、午後からは晴れ間が覗くという。それならばとバックパックを担いだまま2キロ先にあるヴィルヘルムスヘーエ公園に向かうことにした。ここには美しい芸術的噴水や古城、または滝などの見事な景観が丘全体に広がっており世界文化遺産にも登録されている。昨日そこへ行ってみようと思ったのだが、昼頃から雨が降り出したのですっかり諦めていたのだ。
駅前のマーケットでたっぷり食料を買い込んで、丘への緩やかな坂道を上っていく。やはり町中よりも緑豊かな自然の方が居心地がいいのは言うまでもない。ささくれだった心がすっと和んでいくのがわかる。
しばらく歩いていると広々とした湖のほとりに出た。ちょうどベンチもあることだし、この辺で朝メシ兼昼メシを摂ることにする。ああ、これでビールさえ飲めれば何日でもここで過ごせるんだがなあ、などと相変わらず呑兵衛根性を隠そうともしない私であった。
ベンチでパンやポテトチップなどを食べつつ、のんびりと朝の湖を眺める。ベンチの周辺には鴨の群れがいたのでポテトチップを投げてやると、ガアガア言いながらよろこんでムシャムシャと食べた。
しばらくすると、徐々に空に青みが増してきた。どうやら天気予報は当たりのようだ。これで今日は雨の心配なくここで一日中過ごせるだろう。
裏側は辛うじて原型を留めているものの、内部もやはり足場だらけで雰囲気もへったくれもないので城内に入る気力をなくす。まあもともと200年程前にスコットランドの古城をモデルにして建てられた新しい城なわけだが。レーヴェンブルク城は思っていたよりも小さかった。
そうやって入り口からぐるっと回り込むようにして数キロ歩いていると漸く山頂が見えてきた。城などを経由せずに一直線に登ればもっと早く着くのだが、それではやっぱり味気ないのだ。なのでせっせとこの世界遺産の公園を味わいつつ登ってきたのであるが、やはりバックパックを担いだままだと相当に体力を消耗してしまう。・・まったく、ケチらずに駅のロッカーにバックパックを預けておけばよかったな、失敗した・・・。
山頂への長い長い階段と、そのてっぺんに鎮座しているヘラクレス像を臨む。ふー、やれやれ。今度はこの急な階段をあんな所まで登らなきゃならんのか。ああ、背中のバックパックが肩に食い込む。しかしここまで来たらもう引き返せんしなあ・・・。ひとまず噴水の踊り場でバックパックを下ろして一息つくことにする。
・・・15分後。おっしゃ! んじゃ、頂上まで行くことにするか。再びバックパックを担ぎなおして階段を一歩一歩上っていくが、ひと息で20段ほど上がるともう息切れがしてくる。ああ、やわになってるなあ。でもこれでも同年代のリーマンよりは遥かに体力があるつもりではいるのだが。これでも私は現役のバックパッカーなのだ。
適当なところで振り返っては呼吸を整え、またエイヤッ!と気合を入れて上っていく。それにしてもこのクレーン、何とかならんのかね。まったく景観を損なうこと夥しい。このように私のカッセル滞在は全てに於いてひたすら「ツイてない」の一言に尽きるのであった。
フウフウ・・・、
まったく素晴らしい傾斜をしております。斜めキッカリ45度。空身ならなんてことはないのだが、やはりバックパックが肩へと食い込むのだ。飲みもしない缶ビールまで背負っているのだから尚更である。くそう、痛風さえなけりゃ頂上に着いたらグイッと一杯やれるんだが。というより痛風の身でこんな荷物背負って丘の上やら階段やら登りまくって、私の足は本当に大丈夫なのだろうか・・・?
そんなこんなで階段との格闘を重ねつつ、ようやく頂上へと辿り着いた。ふーーーい、ああ疲れた。だがなんとかこの階段を制覇したぞ。頂上には実は車道があって、そこに並んでいる観光バスからぞろぞろと観光客が降りてきたのは見なかったことにしよう。
しかしまあ、ある程度まで上がると見下ろす景色はあまり変化がなくなるものだな。頂上まで登るよりもその少し手前から見下ろす方が景色がクッキリしていて美しい気がする。この階段を見下ろすのも、角度的にも頂上までは上がらない方が良いんだよなあ。それにしてもよく上がってきたものだ。こうやって振り返ると案外大したことなさそうに見えるのは何でだろう・・・? そんなことを考えつつ、暫し頂上からの景色を時間をかけてゆっくりと堪能する。
下りは降りかけると本当にあっという間だった。一直線に階段を駆け下り、そのまま真っ直ぐにヴィルヘルムスヘーエ公園の入口まで下っていく。 それにしてもだだっ広い庭園である。ヴェルサイユの庭園と一体どちらの方が広いのだろうか?
そんなバスターミナルへの帰り道。道端にはつぼみにいっぱいに綿毛を付けたタンポポが咲き乱れていた。今は春真っ盛りのヨーロッパ。アジアにいる時からずっと楽しみにしてきたこの春のヨーロッパであるが、まだここに来て一月と経たぬうちに西欧から東欧へと足を踏み入れることとなった。現実はなかなか思い通りにはいかないものである。
今回のヨーロッパの旅がどのようなカタチになっていくのかは自分でもわからないが、これは思いのほかアフリカの旅が近づいているな・・・と感じるカッセルの一日なのであった。