先日、久しぶりに家族で浅草に行きました。

毎回お決まりのコースですが、雷門から仲見世通りを本堂に向かって歩きながら、焼きたての人形焼き、キビ団子と冷抹茶とはしごし、甘味処の梅園で妻は粟ぜんざい、子供は白玉あん蜜を食べ、さらに少し進むと本堂前に到着します。

本当前の社務所でおみくじを引いたり、お守りを買ったりし、例の線香がもうもうと立ち上り、線香の煙を悪いところに付けると良くなると言われているやつ(調べたら『常香爐』と言うそうです)の前に立ち、中二の長女の頭にいやというほど煙をなすり付け、ついでに、別の目的で自分の頭にもたっぷりと煙をなすりつけて来ました。

その後は、お賽銭を投げてお参りをし、花屋敷に向かう道の屋台で、とうもろこし、お好み焼き、ハマグリ焼き等を食べて、ようやく浅草寺を出ました。

今回は、ご朱印をもらいませんでしたが、実は僕の趣味はご朱印集めで、浅草寺のご朱印は既にもらっています。

ご朱印集めは、一度始めると結構ハマッてしまう趣味です。というのは、各寺院の達筆の方が手書きで書いてくれるので、その字を見るだけでも楽しく、印鑑も意匠的にとても面白い物が多く、見ていてあきません。ご朱印では、墨が他のページに写るのを防ぐためもあるのか、多くの場合その寺院の由緒などを書いた紙を挟んでくれます。この紙を読んで、それぞれの寺院の由緒を知るのも楽しみの一つです。

しかし、浅草寺のご朱印に挟まれた紙には、『ご朱印について』と題したお説教のような文章が書いてありました。その中の文章の一部を抜粋しますと、

この頃、神社仏閣に参拝され「ご朱印」を受ける方が大変多くなっております。・・・・これは本来、お経を自分で書き写して「お納め」することに始まっているものなのです。・・・・・・いつの頃か、この風習が簡略化されて、お経を納めなくとも参詣の証として「ご判」を頂くことになって今日に及んでおります。・・・・・このような視点から申しますと、お経も書写せず、なかにはお堂に入ってお参りもせず、只ご朱印だけを集めて歩くということでは、本来の尊い意義を無視してしまうことになるのです。全く残念なことであります。ですから少なくとも「般若心経」一巻ぐらいは書写なさるかご宝前で読誦なさるかして、それから「ご朱印」をお受けになるように願いたいものです。

ご朱印は観光地の記念スタンプの様なものだと思っていましたが、このご説教を読んで初めてその意義を知りました。