やっと卒論が終わりました。


先生は、六枚ぐらいでもかまわないみたいなことを


ポロリといってましたが


一応20枚ぐらい書く気ではいました。


しかし、終わってみると13枚。


しかも、余白と行間を少し大きく取るといった


小細工をした挙句の13枚です。


ちょっと笑ってしまいます。


しかし


自分なりの考え方をいたるところにちりばめることができました


まとまりに欠けるところはありますが。


果たしてどう評価が下るかとても楽しみです。


以前、自己分析をした際


自分は


「畳む」


という作業が苦手なことがわかりました。


アイデアベースではいろんなことが浮かぶ


しかし、


その中から選択と集中を図る作業を


怠る癖があるようです。


今回の論文もまさに


そういう自分の弱点がでた論文になったと思います。


これまで


様々な本に触れることで、


「思考の深さ」


というものに魅力感じてきました。


人が物事を語るに当たり


どういう言葉を用いるか


それはただの飾りか


ココロのそこから出てくるものなのか


どういうステップでそれにたどりついたのか


というところを眺めるのが


楽しくて仕方がなかったのです。


そして、


その考え方をパクったり、加工したり、真逆の結論を出したり


という過程を経て


少しづつ色んな物事に対しての


自分の意見というものを確立してきたつもりです。


しかし今回の論文を通じて気づいたのが


そうした個々の事象に対しての考え方に一貫性がないことです。


たとえば、


「教育には等価交換は成立し得ない」


という考え方を僕は支持します。


その一方で


ドラゴン桜の


「騙されないために勉強しろ!」


という考え方も非常に的を得た指摘であると思います。


前者の根拠は


教育は受けてみなければ、それが何のためになるのかわからないという点にあります。


だから、勉強をするということを知らない小学生が


「何のために勉強するんですか?」と先生に質問することはおかしい。


発展途上国で勉強ができない状況を一切想定の外においています。


「なぜ人を殺してはいけないのか」


という問いもまた然りです。


その場でそういった人の首を絞めたら、そんなことはいえなくなります。


その一方で


後者は勉強にはっきりとした対価を提示しています。


どちらが


自分の考えに本当に近いのか。


後者のほうが合理的ではあります。


しかし、本来権利であるはずの教育が義務化されます。


そして、対価を提示するということは


対価を放棄する選択の余地を与えるということなので


それを言い切るにはあまりにも乱暴な気がします。


こんな感じでいつも


畳むことができないのです。