祈りは量なのか?
長年、キリスト教界にいるとたびたび聞こえてくるクリスチャン用語?があります。
まだ、信仰が浅いうちは、そういった言葉に疑問がありますが、聞き慣れてくる頃には不思議に思う事もなくなります。
そして、意味も考えずに使っている言葉がたくさんあるように感じます。
「祈りが足りない」という言葉もその言葉の一つでは無いかと思います。
祈りが足りないって何でしょうか?
どんな時に使うのですか?
私は長年クリスチャン生活をしていますが、祈りが足りないという言葉を使った事は恐らくありません。
「より熱心に祈る。」「神との交わりの時間が足りない。」ならば理解出来ますが、祈りが足りないはよくわかりません。
ですので、私が今から挙げる例や考えが的外れでしたら、ごめんなさい。予め謝ります。
祈りが足りないという言葉をよく耳にするのは、願い事がなかなか叶わない時では無いでしょうか?間違っていたらごめんなさい。
病気が治らない時、会堂を建てたい時、平和を祈る時、あるいは、車が欲しい、バッグが欲しい、服が欲しいなどでしょうか。
そうした願い事が叶えられない時、信仰が足りないとか、祈りが足りないとかいう言葉を聞くように感じます。
確かに、ピリピ4:6,7には、願い事を知って頂く事が書いてあります。
これらの事を祈ったり願ったりする事は何も間違っていません。
問題なのは、「足りない」という言葉です。
私はこの言葉が間違った熱心さに誘導するのでは無いかと心配しています。
何度も同じ言葉を繰り返し、祈りを無駄に長くして、ダラダラと時間を過ごす。
私は毎朝一時間祈っている!
一日三時間は祈るようにしている!
徹夜で祈る!!
確かにそういった姿勢は立派ですよ。
私にはマネ出来ません。
しかし、そのような時間を何時間もかけたところで、あまり建設的なようには感じません。
祈りとは、一概に言えないかもしれませんが、神と交わり、お話する手段であると私は考えています。
祈りによって、私達は自分の置かれている状況や抱いている思いについて神に知って頂く事が出来ます。
そればかりでなく、祈りによって私達は神様の御思いや、御計画について、知る事が出来ます。
会話が一人では出来ないのと同様に祈りもコミュニケーションの疎通が出来て初めて成り立つのです。
神様から特別なレスポンスは無くとも、少なくとも、神様の御意思は何か知ろうと考える事も祈りのうちに入ると思います。
しかし、祈りが足りないという言葉や考えは、その祈りの要素を無視した考えです。
子どもが親に対してディズニーランドに行きたい!と話したとします。
親は分かった。今度な。と言います。
しかし、その子は今すぐ行きたいので、友達に相談します。その友達はもっといっぱいお願いすれば聞いてくれるよ。と。
そこでその子は何度も何度もただをこねます。
親は今は休みを取れる状態では無い事、貯金が0で経済的に行け無い事を伝えようとしますが、子どもはまるっきり聞きません。
この親と子どもにコミュニケーションは取れているのでしょうか?
こんなやり取りを何日も続けた所で前に進む事は出来るのでしょうか?
確かに、聖書には、近所の人がやかましくパンを分けてくれと訴え続けたらパンが与えられる事もあると書いてあります。
しかしそれは、神様の憐れみの深さを表すものであり、成熟したクリスチャンがいつまでもそのようでいて良いのでしょうか?
神様の御意思を無視した訴えをし続ける事は神様が用意した最高の時や計画を無視する事ですし、今、神様が与えて下さっている恵みや成長のための試練を無視する事になります。
祈りが足りないでは無く、神様の言葉を聞く時間が十分に取れていない、もしくはコミュニケーション不足であるという事です。
以前ブログにも書きましたがコミュニケーションを取る上で大切な聴くと話すの比率は8:2です。
祈りにおいても神様とのコミュニケーションですので、2割だけ話して、後は耳を傾け、神様のご計画と御言葉について静かに考えるという事が大事なのでは無いでしょうか?
私も取れていませんが、静思の時をもっと持ちたいものです。
それでは、失礼します。