盲人の癒し
今回は盲人の癒しですが、いつもの癒しとは違う点がいくつかあります。
ベツサイダの人々が、さわって癒して欲しいとお願いしたのに、その場で癒しは行わず、わざわざ村の外に連れ出して奇跡を行っています。しかも、イエスご自身が手を取って。
それはなぜか?
二つ考えられます。
一つはその老人への愛の配慮です。
この盲人は、村に帰らなかった事から、この村の人では無かった可能性が高いです。
ベツサイダの人々の奇跡が見てみたいという好奇心から、呼び出され、見世物にされようとしていたのです。
それに対してイエスは、野次馬達の目から守るために、村の外に連れ出して奇跡を行ったのです。
しかも、いつもならば、その癒される人に立って歩けとか、水で洗ってこいとか、命ずるのに対して、手を取ってエスコートしています。住み慣れていない場所に対する配慮でしょうか。知らない人ばかりのところに連れて来られた憐れな盲人への愛の配慮をしたのです。
次の理由としては、ベツサイダの人々の不信仰が考えられます。
イエスの郷里ナザレにおいても、不信仰の人々に対しては奇跡を行いませんでした。
マタイ11:21には、ベツサイダの不信仰を嘆くイエスの姿が見られます。
あの5000人の給食を体験しながらもまだ信じず、イエスをただの手品師のように扱うベツサイダの人々に対してはもう何も奇跡を行いたく無かったのかもしれません。
また、盲人だった人に村には戻るなと戒めている事からも、この新しく救われた盲人が、ベツサイダの人々の不信仰に影響される事を好ましく思わなかったのかもしれません。
また、他に特異な点としましては、盲人の目が開かれるのに、段階を踏んでいるという事です。
イエスが言葉では無く、わざわざ盲人に触って癒されているのは、これまでずっと学んで来ましたように、盲人は目が見えないので、言葉だけでは、誰が癒されたのか分からないためであると考えられます。
しかし、一気に目が開かれないのはなぜでしょうか?
イエスの能力の問題でしょうか?
いいえ、イエスは一瞬にして癒す事の出来る方です。
今まで目が見えなかった人が一気に目が見えるようになったらどうでしょうか?
目の負担が非常に大きいのでは無いでしょうか。
「しばらく見つめていると見えるようになった。」
と、ありますようにかなり時間をかけて、癒されたようです。
これも、この盲人のための配慮でした。
さて、この癒しの記事は、弟子達が中々悟らずイエスに「まだ、悟らないのですか?」と指摘されてしまう箇所とピリポ・カイザリア地方におけるペテロの信仰告白の間にわざわざ記してあります。
この事から、今回の癒しは弟子達の霊的な目が少しずつ時間をかけて開いていく様子を表した記事であるともいう事が出来ます。
いつまでも悟る事が出来ない弟子達に、ゆっくり時間をかけて伝えようとされるイエスの優しさと忍耐が表れています。
しかし、この霊的鈍さ、盲目さは弟子達に限ったことではありません。
私達もまた、霊的に盲目なのです。
いつもメッセージを聞くけども次の週には忘れてしまう存在なのです。
いつまで経っても悟る事が出来ず、鈍く頑ななのです。
しかし、意味が無いような毎週の繰り返しが大事です。一週間のサイクルは人間にとって丁度よく出来ています。
いつかは、あの弟子達のように、目を開かれ、教会の働きに出て行くものとなりたいものです。
それでは、失礼します。