【注意】
①プロジェクトヘイルメアリーの原作小説・劇場版の両方についてのネタバレを多分に含みます。が、基本的には劇場版を軸にして考えています。
②個人的な見解であり、作品の内容を逸脱している点も多いかもしれません。また、他者の意見について反対の立場をとっている部分がありますが、それを否定したいわけではありません。あなたがどんな感想を持ったとしても、それを大事にすべきだと思っています。
③思うままに書いていきます。長文乱文です。
では本題。
原作小説を読んだ感想は「なんか、モヤっとすんなぁ」だった。感動した。内容にも満足した。読了後は友人にすぐさま押し付けて布教したくらい、読書体験としてかなり良い作品だと断言できる。
だが、一見ハッピーエンドに思えるが、なんというか後味が悪い…つまり心に引っかかる何かがあった。
劇場公開後しばらく感想を収集し、ようやく観に行って、そして数日考えたことで、なんだか言葉に、文字に起こさずにはいられなくなった。
孤独について
タイトルにしたように、心に引っかかったものの正体は「孤独」なのかもしれない。
グレースはミッションをクリアし、星を二つ救った。望むならいつだって地球にも帰ることができる。(しかしインターステラーみたいな問題はあると思うが)だが、何故か彼は救われていない気がした。
おそらく小説を読んだ誰もが言うように映画は「バディもの」としての側面が強い。
旧Twitterを眺めていると「ロッキーとグレース、ずっと一緒!しあわせ!しあわせ!しあわせ!」みたいな感想が目につく。その率直な視点は正直羨ましい。しかし僕はそこで立ち止まり、斜に構え、穿った物の見方をしてしまう。
「果たして、ロッキーとグレースが一緒にいることは幸せなのか」
(注意のところにも書いたが、これが僕の考える起点となったというだけで、作品についての感想は各々が自由に持つべきだと思う。それを尊重する)
本題に戻る。
つまりこうだ。
グレースは地球にいつでも帰られる。ロッキーからの提案をグレースは「考える」ことにする。
それは「地球人類といることよりもロッキーといたい」からなのか?
確かにストラッドさんの「3時間考えてもよい」と、ロッキーの「いつまでも考えて」には大きな差があるように思える。だが、僕はどちらも同じくらいグレースを慮っての言葉だと思っている。なんせ、グレースが嫌がろうとストラッドさんは人類を救う為に計画を強行せざるを得ないわけだ。(小説には書かれているが、グレースでなくてはならない理由がある)
そんな中でも自分の意思で行くために気持ちを整理するだけの時間を「個人」に与えることは、ストラッドさんの出せる最大限の愛情のようなものだったと思うからだ。
そこはグレース君は理解している。のだと思う。「人類は冷たかった、ロッキーは優しい」ではない。グレースも地球に帰りたい気持ちはある。ロッキーのアストロファージに余りがあると知り、地球に帰れると知った時、涙したほどに。
では、何故グレース君は地球に帰ることを選択できないのだろうか。
グレース君について考えてみる。
グレース君はバツイチだ。
グレース君は自説が受け入れられなかった。
グレース君は片道切符の志願者にはなれなかった。(死にたくないから)
しかしそれでも科学を捨てられない。
しかしそれでも人類を救いたい。
グレース君は常に相反する心理を抱えた人間だ。
(推測でしかないのだが、グレース君の提唱した論文の提出は嫁が出て行った直後くらいだったりしないだろうか)
他人に裏切られ、何もかも失った。もう戻ってくることはないものたち。
つまり、グレース君は孤独の人なのだ。
ついで、ロッキーについても考えてみる。
ロッキーは仲間たちが死んで46年ほど宇宙船のなかで一人で生きていた。
エリディアンは眠る時互いを守りながら生きている。習性や慣習を超えた共生の生き物だ。
寿命も長く、伴侶とも長く共に生きる。(繁殖方法についても小説版に記載がある。これもまた人類とは違う)エリディアンにとっての他者とは、人類の考える他者とは違う。基本的に他者とは共に、「生存するために必要な存在」だからだ。
エリディアンにとっては孤独という概念がない。(映画だとついでにプライバシーとかもない)
ロッキーが初めてヘイルメアリーを捕捉した時の喜びは計り知れない。
グレース君とロッキーは互いに孤独を味わった。だが、その本質は違うものだ。
例えば、「子どもが迷子になって再会した場合」を仮定しよう。
ロッキーは走りより、抱きつき、「寂しかったよ」と泣くタイプだろう。
だがグレース君はそうじゃない。
「なんで一人にしたんだ?」と思う。「今更なんだよ」と抱きしめられる手を払うかもしれない。
仲良しの親子と、虐待下にある親子と想像していいかもしれない。一重に孤独と言っても、他者を渇望する孤独と、他者に諦観した結果の孤独は別のものだ。
ロッキーはヘイルメアリー号の中でグレースと会話を重ねるうちに、グレースの抱える孤独も学んでいる。
我々がロッキーを通してエリディアンの暮らしを想像したように、ロッキーもまた、人類の社会を想像しているはずだ。
作中の様々な場面で「ロッキーいいなぁ、人類はクソ」そう思った人も少なくないと思う。それをロッキーも味わっているはずじゃないか。
ここまでを踏まえて、もう一度地球への帰還をロッキーが提案する場面を考えてほしい。
ロッキーはそもそも、グレースが「やったぜ!じゃあ地球帰るわ!今までありがとう!バイバイ!」なんて答えるとは思っていない。だから「君が望むなら」とおずおずと聞く。
そりゃあ一緒にいたい気持ちも大いにあるだろう。なんなら、出会いたてだったなら「ずっと一緒にいて!」とすら言ったかもしれない。(現に小説では「自分の考えだけど」と言っている)
どちらの星もアストロファージを自由に増やせるのだから、一緒についていくことだってできる。だが、ここで提案しているのはあくまで「グレース、君は地球に帰りたい?」ってことなのだ。
親と喧嘩して家出した子に「どうする?おうち帰る?」と聞いているのと似ているかもしれない。帰りたい気持ちも、帰りたくない気持ちも分かってしまったのだから。帰りたい気持ちの方が大きくとも、少しの帰りたくない気持ちがあるというのは辛いものがある。
このシーンは両者とも凄く心の痛む場面だと思うのだ。
(蛇足だが、小説版のロッキーは精神的に成熟している。地球時間で291歳なのだから当然だが、映画のみで考えた場合、純粋だった彼が他者の苦痛を知り、思いやることでより大人びていくという流れと考えるとよい作りになっていると個人的に思っている)
孤独と寄り添う
さて、映画ではキセノナイト越しにロッキーとグレースが抱き合うシーンが複数回出てくる。
「いつか、壁がなくても触れ合えたらいいね」なんて、思った人も多くいるのではないだろうか。安心してほしい。僕もそう思う。
だが同時に、「壁越しにしか触れ合えないことに意味があるんじゃねぇか!!」と、僕の中のオタク魂が叫んで暴れて駄々を捏ねている。オーケィ、彼の主張に耳を傾けてみようじゃないか。
僕が思うに、グレースの孤独に似た孤独を持ってない人間はいないと思っている。
仲良くしたいけど仲良くできなかったり、差し伸べられた手を掴めなかったり、頑張ってきたことが報われなかったり、色々あるだろう。
僕らはその孤独を、苦しみを、過去を、無くしてしまえるような理解や出会いこそ至高だと思っていないだろうか。そしてそれは簡単に手に入らない。
いや、そういう体験ができる人も中にはいるんだと思う。「付き合ってる人が優しくて幸せ!」って思ったり。羨ましい限りです。ちくしょう。
だけど、世の中を見るとそうやって生きられる人は少ないと思う。そうした体験を得てさえ、数年後には「昔は優しかったのに」って言ってるかもしれない。
だからこそ、僕は思うのだ。
「キセノナイトはATフィールドなんだ」と。
死になさい、グレース君!ヘイルメアリーに乗るのよ!
行きなさい!誰かの為じゃない!あなた自身の願いのために!
あなたはもう、何もしないで。
「ストラッドさぁん!!」
失礼、心の中の悪いオタク魂が叫んでしまいました。
映画でカラオケのシーンで、グレース君は周囲に馴染めてなかったですよね。孤独って、誰といても孤独じゃないですか。
グレース君はロッキーといても、地球に帰っても、きっと孤独なんです。失ったものは帰ってこないんです。どこに居たって彼の孤独は埋まることはない。
だからこそ…
僕はキセノナイト越しに、ATフィールド越しに、他者を抱きしめようとすることしかできないんです。そうできる人でありたいと思うんです。抱きしめてくれ〜と願うんです。
最高の出会いとか、理解者はなくていい。ただ出会った目の前のその人に、心の壁越しから。
バディものだからこそ、孤独に目を向けてみよう。
そうすることで、何か見えてくるのではないだろうか。
それが…上手く言えやしないんですけど、僕の感想でした。