参院選も終わりました。 選出された議員達には、個々が議員として成すべき職務をその政策や理念に基づき、国の為、人の為に尽くし、日本の国益を守る為、自らの身を粉にして働いていただきたいと願うものです。
国会に於いて与野党が討議をするなら、己の利害関係に固守することなく、国民の代表者たる
国会議員としてプライドを持ち職務を全うし、襟を正し行動して欲しい。
最近の国政を担う議員達を見ていると、品格・知性や知恵の乏しい輩がやたら目に付く。
偉大な先人達は嘆いているだろう。 さて閑話休題。。。
国会に於いて与野党が討議をするなら、己の利害関係に固守することなく、国民の代表者たる
国会議員としてプライドを持ち職務を全うし、襟を正し行動して欲しい。
最近の国政を担う議員達を見ていると、品格・知性や知恵の乏しい輩がやたら目に付く。
偉大な先人達は嘆いているだろう。 さて閑話休題。。。
最近、皆さんは自分が卒業した小学校、又は近所の小学校を訪れたことはありますか? 昔、日本の公立小学校では殆ど二宮金次郎の石像が建てられていたそうである。 皆さんは二宮金次郎を「背中に薪を背負い、働きながら勉強したエライ人」ということ位しか覚えていない人も多いのではないだろうか? そんな時代が昭和後半から平成へと移り、学校環境は 随分変わってしまった。 〔二宮金次郎〕像の事を調べてみると、昭和初期、大日本帝国主義をとった日本政府は、彼の姿勢を戦争に利用するために銅像にして全国に建てたが、その為、戦後多くの銅像が取り外されたという記述がありました。 一方、大日本帝国主義とははなれ、純粋に彼の業績や姿を奨励するものとして、銅像が建てられた 学校もあるそうです。 内村鑑三が著書『代表的日本人』の中で、19世紀末欧米諸国に対し「日本人の中にも、これほどの素晴らしい人物がいる」と苦難の時代を救った偉人として書いているのが、二宮金次郎だ。 〔二宮尊徳〕は、江戸時代の幕藩体制という与えられた制約条件の中で、自分の責任でできることを最大限に行った人。 封建制のもとでは彼自身本当の権限は持っていなく、藩主や幕府に命令されて動く一つの駒に過ぎなかった。 〔積少為大〕自然の素晴らしさを知るとともに、小さな努力の積み重ねが大切という意味。
IT企業の経営者である友人の閑話休題〔積少為大〕 - 代表的な日本人「二宮尊徳」
過去に「ケネディ大統領が尊敬した日本の政治家-上杉鷹山-」を書きました。 この記事では、「明治期のキリスト教者に、内村鑑三という人がいますが、彼は明治41年に英文著作「Representative men of Japan」(邦題:「代表的日本人」)を著しています。Menは、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の5名です」と書きました。 今回はこの5名の一人である、二宮尊徳を考察してみます。 私が小学校に入学した頃は学校の門を入ると、背中に薪を背負い、本を両手で持ちながら読んでいる人物の銅像が建っていました。この人の名は、二ノ宮金次郎(尊徳)と言います。 二宮尊徳は、1787年に、現在の神奈川県小田原市に百姓利右衛門の長男として生まれています。 再三にわたる酒匂川の氾濫で田畑を流され、家は没落し、14歳で父利右衛門が死去、2年後には 母よしも亡くなり、兄弟はばらばらに親戚の家に預けられ、金次郎は伯父二宮万兵衛の家に預けられました。 金次郎は、朝暗いうちから夜遅くまで汗と泥にまみれて一生懸命働き、荒地を復興させ、また僅かに残った田畑を小作に貸すなどして収入の増加を図り、その間余裕ができればわずかな時間も無駄に せず勉強をして、先人の教えを理解していきました。 荒地を開墾して収穫を上げ、お金を貯め、一生懸命努力して24歳までに一家を再興しています。 金次郎はその才能を認められて、小田原藩の家老服部家の財政建て直しや藩領下野桜町(現在の栃木県芳賀郡二宮町周辺)などの荒廃の復旧にあたり、後に東郷陣屋(栃木県真岡市)にあった天領 (真岡代官領)の経営を行い成果を上げるなど、凡そ600の農村や藩を復興、貧困から救いました。 やがて、水野忠邦によって幕臣に登用されてからは日光神領の復興に尽力し、栃木県今市村(現在の日光市)で、1856年に79歳で亡くなっています。 明治10年代に、政府よって注目され、また門人の手による「報徳記」「二宮翁夜話」は相次いで天皇に供されています。 尊徳が政治体制を変化させずに農民の勤勉と倹約によって荒廃した農村を立て直した人物として理解され、1889(明治22)年に従四位を追贈されています。 二宮尊徳の弟子である、大友亀太郎という人が旧幕府下で札幌村の開拓を指導し、札幌開拓の始祖と呼ばれています。 二宮尊徳は、藩の使用人や武士達の生活を助けるために、お金を貸し借りできる「五常講」を つくっています。 五常講は今日の信用組合と同じ性格を持っています。 信用組合の発祥はドイツといわれていますが、尊徳が行ったのは、それより40年以上も早いことになるそうです。 倹約を旨とした二宮尊徳ですが、倹約の逸話としては、 ① 子供の頃、わらじを編んで金を稼ぎ、父のために酒を買った。 ② 両親の死後、叔父の家に預けられると、寝る間も惜しんで読書をしたそうですが、 油代がもったいないと叔父に指摘されると、荒地に菜種をまいて収穫した種を菜種油と交換し、 それを燃やして勉学を続けた。 ③ 田植え後の田に捨てられている余った稲を集めて荒地に植えて耕し、米を収穫した。 ④ 一斗枡を改良し、藩内で統一規格化させ、役人が不正な枡を使って量をごまかし、差分を横領し ていたのを防いだ。 ⑤ かまど番から余った薪を金を払って買い戻したなどがあるようです。 この小さな努力の積み重ねが大切だということで、(積小為大:せきしょういだい)の教えとして、 後世に残りました。 私の小学校に有った、二宮尊徳の像は、積小為大の大切さを教え、物の尊さや、愚直な積み上げの 大切さを小学生に教えていたのかも知れません。 前回の上杉鷹山と二宮尊徳の共通する業績は、数々の工夫を凝らし無駄を排除し、飢饉から庶民を 救うという偉業と、それを達成するために権力者の横暴を諌め、社会全体の健全化を図ったという ことです。