まずは、「歴」という字を辞書で調べてみると、「分明であること。れっき。はっきりしている。」(用例:歴然)と「順を追って通る。経過してきたあと。」(用例:歴史、歴戦、歴任、歴訪、経歴、遍歴、履歴)とあったが、この中で「れっき」に注目して、調べてみると「れっきとした(歴とした)」があった。意味は、「疑う余地のないほど確かなさま。」「確かなものとして世間に認められているさま。」とあった。
つぎに、「史」を辞書で調べてみると、「物事の移り変わり。出来事。出来事の記録。」(用例:史学、史実、史跡。先史、戦史、歴史)
別の辞書には、「時勢の変遷・発達の過程の記録」とあった。
『史に三長あり』という言葉があり、歴史を書く人が具えるべき三長所として、才と学と識。とされていることもわかった。(これは歴史家や出来事を記録する人に対してのことらしい。)
そこで、庶民の立場ながら、歴史が気になったり、学ぶ意義を感じたりするのは何故なのかを自身の感覚の経験で考えてみようと思う。
歴史という言葉に出会うのは、学校に行ってからの学齢期が最初という人が大半だと思う。
自身も例外ではない。だれだれが何々をしたという物語の記述だったように思う。主語と動詞で記述される文や話だった。
でも、明確に憶えているのは、父が源平の合戦の話を口承で面白おかしくその光景が目に浮かぶように語ってくれたのが自身の最初の歴史話として記憶に残っている。御伽噺(おとぎばなし)とは区別して聴いていた様な気がする。
その後は学校の授業としての教科書の「歴史」を学び、テスト用の勉強としての歴史を覚えていたような気がする。その際の忘れ残しが断片的な曖昧な歴史知識として、なんとなくの印象やイメージとして脳の中に散らばっているような気がする。断片的な知識をつなぎ合わせるように必要があれば取り出してきた。正直な話、古い時代の歴史の登場人物について、詳しく掘り下げて調べてみるというようなことは、テストに必要な場合を除いてはとても少なかった気がする。
ただ例外はやはり近現代史の登場人物やその行動や思想や主張である。今の生活や暮らしの中での課題に身近に直結しているからだろうか?
また、今がまた後世で、歴史としてどう記述されるのかという発想も繰り返し、想起する場面が多くなっている気がする。それは、庶民である自身が登場人物の一人でもあるのだという感覚であると思う。それだけ今の世界各地の社会は大きな変化の局面にさしかかっているのかもしれない。TVやインターネットやスマホの登場で、地球の裏側の映像も生中継で見ることができ、生で会話や意見発信ができる環境に置かれていることによって、そこから得る情報と現実の肌感覚の実存との統一をした生き方が必要になっているように思う。つまり早い話が、生身の人間の動物的な直感を磨くことが第一に必要な課題だと直観している。今の時代には、直感と直観の力がきわめて重要だと確信している。
生き物としての人間は、危険を察知する本能である直感が鋭くなければ生存できない。
また、社会的動物としての人間は、直観力つまり本質を見抜く力が磨かれなければ、やはり主体的に生存することはできない。
歴史は、誰が何のために記したのか、書かせられたものなのか、また文字を持たない人々の歴史をどう考えたらいいのか、口承や口伝で語り伝えられるものに真実はないのか、などなど庶民レベルでの伝えられるべき事実や課題を共有し共生するための歴史というものが作られ始める気がする。歴史の物語を為政者の都合の良い物語に書き換えるというような行為は史的には行われてきたが、これからの時代は情報がどこからでも発信できるのだから、時代遅れといわざるを得ない。ただし、ツール自体が権力者によって、私的に乱用されることがあれば、人類史の汚点として残ることは確かである。