「表現」という言葉をあらためて考えてみたい。表し、現すと書くが、著す・顕すもあり、「あらわす」という言葉はかなり意味合いが深そうに思う。辞書にも、あらわすは、「神仏が霊験を表に出して示す。感情や考えなどをはっきり見える形にして表に出す。」などと説明されている。

 

 世界中に伝わる「創世神話」には、「つくる」「産む」が多く各地にあり、「成る」もあるがこれは少数派だという話を読んだことがある。その少数派が日本なのだそうだ。たしかに日本の自然の生命力は旺盛で四季もあり、まさに自然の神々の恵みに溢れている。「つくる」「うむ」という動詞を使うよりも、「成る」という表現が生じるのも然りであると思う。一神教が生まれる厳しい風土とは異なる自然と共生できる風土での暮らしを伝承してきたのだと思う。

 

 また、表現は言葉であるとは限らないし、太鼓や笛や弦による音や音楽、絵画や彫刻や織物などの美術は暮らしの中にあっただろうし、歴史書を紐解くと言葉よりも主に音による表現や表象を刻む・描くことによる表現が主であった時代が続いたように考えられるのだそうだ。

「文」という字は、人間が身体に彫った刺青を意味するのだそうだから、刺青も文様ではなく、古代の人々にとっては、物語であった時期があったのではないかという話もうなづける。

 

 「表現」という言葉に戻って考えてみると、辞書にもあったように、内面にあるものを外に「あらわす」という行為であるというところが芯であると思う。内面にあるものが貧しければ、貧相な表現しかないということになる。では、人間の内面つまり精神性はどうやって育まれるのであろうか?

 

 大和民族というか、倭民族というか、日本民族というか、日本語という言葉でものを考えている人々というか、人によってそれらの言葉に対する印象がとても異なるようなので、迷うが自身は「やまと民族文化の伝承を誇りに思う人々」と考えたい。人種も国籍も門地も一切関係なく、人類としてお互いの文化に敬意を払い合う心性の持ち主としての伝統と考えたい。

 

 それを特に意識して、今日の文章には「和製英語」や「英単語」は使わないで書いている。

日本においての文字の発祥というのは、漢語を学んでから、「やまとことば」に其れを摂りいれて自身の精神に融合させ、血肉化してしまうため、「ひらがな」「カタカナ」を生みだしたところにあると思う。 漢詩や和歌が入り乱れて咲いた奈良時代や平安時代にその基盤が生まれている。平安時代の平和の世の長さも関わっているように思う。

 

 明治以来は、欧米に追いつけ追い越せの時代となったが、ここで大活躍をするのが、表意文字である漢字を駆使した「翻訳新語」だ。どうにも訳しようのないときには、「カタカナ」表記で、乗り切ってきたのだ。凄い民族の蓄積された知恵とでもいおうか、自国に根付いた精神というか心を歪めることなく、新しい文化を消化し吸収してしまう言語活用能力のようなものを

「やまと民族文化の伝承を誇りに思う人々」は伝統的に持っているのだ。

 

 英語かぶれや英語へのひけ目・劣等感の人々が、大きな顔をし始めているのがとても気になる昨今である。不思議なのは日本の伝統の尊重をいい改憲を声高に叫ぶ人々が、それとかぶっているように見えることである。どういう主観的な合理性や首尾一貫性が頭の中にあるのか不思議である。日本語でものを考える力の養成と醸成こそが最重要だと思うのに・・・。

スマホの急速な蔓延という新しい脅威も登場しているのだから、なおさらである。

 米国の意向を忖度し続ける属国でよいという判断ならば、そういうこともあろうが、自身は日本人の矜持を大切にしたいと思う。