こどもの存在は本当に貴重だと実感する。この「こども」とは、年齢的な幼児・児童の意味でもあり、いくつになっても親は子のことが心配だという親子関係でのこどもの意味でもある。
自身が精神的に不安定であったり、落ち込みそうになっていても、子どもの笑顔やかわいい仕草を見ると顔の筋肉がほころんでくる。そういう感覚の人は多いようで、通りすがりでも子どもらしいこどもを目にすると穏やかな目つきになってそれを眺めている大人の姿を見かけることも日常である。
老人ホームに子どもを連れて訪問すると出会う老人たちの表情が華やぐのを感じるから、子どもには居るだけで、幸せを運ぶパワーが備わっているのだろう。“社会の宝”だというのは誇張や比喩ではなく、正真正銘の呼称だと思う。
「ちびっ子ギャング」とか「悪がき」とかいわれることもあるが、未熟な面があっての子どもなのだから、大人の側に余裕があれば、微笑ましい光景として治まってしまうのだと思う。
だから、子どもに小さい大人になることを求めてはいけないし、ましてや強いることは罪であると思う。
学校など子どもが集う場所は、間違うための場所なのだから、子どもは間違うことによって知恵をつけていくのだから、子どもを見守るということの意味を大人は反芻して修得していかねばならないのだと思う。だから、育児は、育自であり、一体のことなのだと思う。
大人の側に余裕がなかったり、年齢的肉体的には大人なのに大人としての精神的な成熟が不十分な人間がかつてのチラホラから近年では頻繁に見られるようになっている気がする。最近の調査で、高齢者よりも若者のほうが外出しない傾向が強まっているというが、かなり心配な事態が根深く侵食し始めているのかもしれない。
国や社会の制度もそれぞれの現場で生身の人間が担当しているのだから、生身の人間の感性や感覚が狂ったりしてくると社会の宝である子どもに対する感覚も狂ってくると思うので心配だ。
社会に多々ある難しい問題は理屈でなく、信頼できる人間かどうかの直感力で対応するのがよいと自身は考えているので、子どものパワーに対する姿勢や様子で、生身の人間の大人の精神の健康度合いを測る尺度にしていこうと思う。