「いただきます」は、

辞書によると、頂く(戴く)という言葉を丁寧に言った言葉。食事を提供した人に対し発する感動詞。「頂く」というのは「もらう」「食べる」「飲む」といった言葉の謙譲語。とある。

 

元来「頂く」という言葉は何かを頭上に載せる動作を表すので、神様から物を授かる際にそれを高く掲げて感謝し受け取ったことから、「もらう」という意味の謙譲語に転じたらしい。

 

謙譲語は、自らをへりくだって相手を敬う表現。これは「あなたの命を頂いております」と食材への感謝と懺悔の気持、あるいはその料理を作ってくれた人々に対して敬意を表した言葉になっている。この場合の食材は、いにしえから大和心では、動物のみならず、植物や微生物まで生命あるもの全体を自然界からの恵みとしてイメージしていたと思う。

 

その象徴的な慣わしが、残っているのが捕鯨の街に訪れると「鯨を祀る神社」があり、余すところなく活用しきる技と伝統がある。鳥などの処理場にも、立派な供養塔を設けてある。同じ捕鯨でも欧米の油だけ取ったらあとは捨ててしまう「人間上位の文化」とは明らかに違いことに気づかされる。欧米の家畜・家禽は密飼して屠殺しているのに、鯨は可哀そうという生命への差別感覚には強い違和感がある。まして、大地の植物への農薬散布や遺伝子組み換えなど不遜なことをしているのだから、心に痛みを感じていいと思うのだが、神から選ばれた人間は別だと考えるのだろう。日本各地の神社・寺院を廻るとき、人間の性(さが)と生命の霊や神仏への祈りを観る心に触れる。老若男女誰でもが、厳かな気持になるのはそのせいだろう。就学前の子どもが小さな手を合わせるのを見るとき、特にそれを感じる。

 

「ごちそうさま」は、

「馳走(ちそう)」とは、元来、「走りまわる」「馬を駆って走らせる」「奔走(ほんそう)する」ことを意味する。

これが、もてなしの食事の調達をするためには、かけまわるので、心をこめた(食事の)もてなしや、そのための美味しい食物という意味が、中世末から近世始めにかけて生まれたという。

 

走り回る様や奔走する様を意味する「馳走」に、丁寧語である「ご」を付けた言葉がこの「ご馳走」で、「様(さま)」も感謝の意。

 

昔の日本は今とは異なり、食材が手に入りづらかったため食事をつくるのも一苦労。

食材を集める際にも馬に跨がり、遠くの街まで駆け巡り、やっとの思いで食材を調達して、

「馳走」したといわれている。

 

さらには、調理環境も未だ整っていなかった時代なので、数々の苦労を経て、食卓に並んだ食事。そういった苦労への労いから、豪華な食事やおもてなしの際に出される食事のことを「ご馳走」と呼ぶようになったという。

 

この「ごちそうさま」とは、「ご馳走」してくれた全ての人たち、肉や魚、野菜といった私たちの体を形成している食材を労(いたわ)った言葉だといわれている。「いただきます」と相通じる言葉なのだ。

おもてなしの心と同時にそれらを労(いたわ)り感謝して、合掌して☆祈る心☆を持っている日本人ならではの心の伝承の風習なのだ。

 

ところが、最近は「食事をすることが面倒くさいと感じている人が増えている」といわれる。

それに呼応して「食べる簡便化」「食べさせる簡便化」の市場が指向されてきているという。その傾向は、世代を問わずに現れているようだ。「調理の簡便化」の新製品は、「食べる簡便化」に見合うように登場してきているようだ。

ただ、「調理の簡便化」は、調理という手作業があるので、進化の一形態の仲間に入れてもいいが、「食べさせる簡便化」は★食のエサ化★であり、「いただきます」「御馳走様」の祈りの心からどんどん遠ざかる気がする。かなり深刻だし、こころの病みが心配だ。

 

食べること自体への面倒くささ、煩わしさ、満腹感への鬱陶しさまで含めて、心身の感覚として立ち上がってきているらしい。「食事する」「食べる」ということの価値や意味が、相対的に低下してきている様相があるという。コンビニの24時間営業で、その便利さをカネで買うライフスタイルが拡がり、「コンビニと結婚」のようなギャグまで生まれている。調理をしない人できない人が増えている。

 

なぜ、そのような傾向が生じているのかは、「多忙」や「飽食」の実態に因果関係があるというよりも、「個食」「孤食」の浸透の実態に因果関係がありそうだという指摘がある。

たしかに、それは因果関係の的を鋭く射ているような気がする。

 

“食べ事”を面倒くさいとか、煩わしいとか感じるというのは、生命の伝承にとって危機的である。心身の養生と育みにとって、食べ事は基幹である。

しかし、「個食」「孤食」は、家族や労働環境や教育環境などの社会的な要因があり、解決策は単純ではないから、厄介だ。

そこで、打開の道を開けるのが、「いただきます」「御馳走様」の作法の心構えではないのか。これなら、一人でも☆心を安らかにする時空☆を創ることができる。また、食べ物の向こう側の光景に想いを馳せることができる。

☆満たすのは胃袋だけではない、心も満たすのが“食事”の真髄なのだ。心身を育み、養生するのが食事の役割なのだ。☆

 

 伝承の「いただきます」「御馳走様」の魔法の言葉で、祈りの心を蘇らせてみることは、十分に試す価値があると思う。