あらゆる人間に共通の関心ってなんだろう?と考えたとき、“食べること”と“教育”なのではないかと、まずは想った。

 

生きていくには、動物の一員としては、まずは生命ある存在を糧として食べなくてはならない。

「生きることは食べること、食べることは生きること」とさえ言われる。これは人類として、まずは間違いない。


 では、もう一つの教育はというと人間は乳児から一人前の肉体に成長するのに十数年はかかる生物だ。その間は保護され教えられ、育てられる存在だ。だから、教育も万人に共通といえる。人間は、一人ひとりが“母”によって産んでいただいて、命を授かった存在だということだけは確かなことだ。
 母の胎内で育ったあと、「オギャー」と外に出てきてから、個体差はあるらしいが、一人前の生殖機能を備えた肉体つまり男子の精通や女子の月経の始まりまでに育つには、十数年の月日を要するようだ。地球上には、各地に13歳とか14歳で性の伝承行事が位置づけられてきた風俗習慣は存在するらしいから、そのあたりの年齢で、成人の仲間入りへの準備が始められてきたということだ。

 

 

 

 だがしかし、人間は社会の中で生きてきたし、生きていく社会的動物という側面があるので、生物としての生存のために保護され養ってもらうのはいつまでなのか?という線引きをどう考えたらよいのかという厄介な問題がある。

 

  つまり、肉体的な成熟だけでなく、社会的な成熟も一人前に生きていくためには求められるのだ。かつては親や親族がそこまで含めて社会で通用する一人前の力を養う責任を自覚して、子育てを担っていた。それは“家業”という宿命的な担いが社会的な分業の中で基本的に存在していたので、親が子にどういう力を養成すればよいのかが自覚されていたということなのだと思う。

  ところが現代という時代は、商品経済がグローバルに地球上を覆い尽くし、資本主義的な社会的分業の侵蝕が人の生活のあらゆる分野に際限なく加速度的に拡がってきている。

 

その中で本来は親や親族が担ってきた“教育”でさえ、おカネで他人に外注することが始まっている。従来も地域の大人たちは“お互い様”という考え方で、地域の子どもの躾などは関わっていたのだから、他人の力を借りることは全否定されることではない。

 

しかし、我が子にどういう力を身につけさせるのかという親の側の視座が甚だ不明確で、丸投げに近いことも行われているように思う。では、誰に丸投げしているのかというと大半は教育施設(幼稚園・保育園・学校)である。それは親自身がすでにそのような子育てをされてしまってきた世代だということの影響が大きいと思う。

日本の場合、明治以来、「脱亜入欧」で西洋に追いつけ追い越せと「殖産興業」「富国強兵」政策を推し進めてきた。教育の学校制度も、近代産業を担える「人材としての教育」を意識して、まずは「知育」ということで、知識重視の教育を重点的にやってきた。先進国の仲間として肩を並べる水準にまで、敗戦を経てもなお朝鮮戦争やベトナム戦争の特需という追い風を利用し、経済力を伸ばしてきた。


教育の「知育重視」は戦後教育にあっても基本は変わらなかったといってよいと思う。のちに、「偏差値教育」ということで、輪切りでの学校の格付けがおこなわれ、差別選別教育といって問題にされたのはそこに基因がある。知識量が高校入試・大学入試でのふるいわけの基準となったからである。入試を突破すれば、社会に出るときにある種の安定のあるポジションが用意されているという学歴社会である。ポジションを得るためには弱肉強食の受験競争に誰もが身を投じるしかないのだ。

 

一方で、大学に入ってから勉強しない大学生というのも問題になっているが、ある種のブランド大学の卒業資格を得られるポジションの獲得に成功してしまえば、そういう行動をとることになるというのも仕組み上、当然といえば当然である。

  欧米の学校制度は、高校までの教育は“人間形成”と位置づけられていて、“知識重視”は大学教育からと明確に意識されているようだ。その点が日本の教育と真逆である。ここに大問題が潜んでいるとみて間違いない。

  この数十年、日本では“人間形成”について語られてこなかったのだ。官も民も知育面での「学力向上」を義務教育段階で目標としてきてしまった。その中で自信を喪失した若者を大量発生させてきてしまったのだ。日本の若者は「自己肯定感」が弱いようだということが問題視されているが、これは若者たちの責任ではない。知識面での到達度が問題にされ、100点満点に対しての減点評価で測定されるのだから、あれもこれも器用に習得できなければ必ずマイナスされるからだ。それも他人との比較評価で相対的に測定されてしまう。一人ひとりのの進歩を基準に評価されていない制度でありしくみなのだ。

“自育”とは、☆育自☆であり、自信を培い養うことであり、自分で自身を育てるということである。親・教師の手によって、教育するのも「自信を育てる」ことこそがその教育の真髄であるが、本人自身が一生の絶えざる営みとして、自らを加点評価で育てるという“自育(育自)”することこそが、万人に共通の課題だと思う。それこそが、まさに“人間形成”の真髄である。加点評価で養われる自信こそが明日の健康な心の栄養となるのだ。

 

 明治以来、欧米先進文化の摂取に熱心に取り組んだ日本の先人たちは、欧米語を翻訳する中で、共和、民主、論理、新聞など多くの和訳語をすでに平安時代以来、血肉化させてきていた中国伝来の「漢字」を駆使して次々と案出した。このことによって欧米語を使わずとも、欧米伝来文化をこれらの訳語を活用することで、識字水準の高かった日本の民衆の中にぐんぐんと普及することができた。(もし、英語・独語・仏語・蘭語など外国語を修得した者のみの知識に止まっていたら、今の日本の知的水準は無かっただろう)

 これが日本の先人たちの凄さである。これらの和訳語は、韓国ばかりでなく、漢字の本家の中国でも採用されていることは、よく知られている。

 

つまり、本来は、自育が得意な日本の伝統があるのだ。前人未到の道を切り拓く歩みだったはずだ。誰も踏み込んだことのない世界だったに違いないから、誰も知らないのだから、100点満点から減点する発想はしなかったに違いない。互いの苦心と努力を加点法で褒め合い協力しあって、より高みを目指したに違いない。

本来の学校とはそういうものなのではないか。

 

まずは、加点法で“育てる”視点を軸に置いた学校に変革してほしいと思う。そのためには、個々の子ども・生徒・学生にまず向き合い、それぞれの課題に取り組む姿勢を支える教師がいなければならない。そして、教師と教師集団(相互協力と切磋琢磨)を信頼して、現場の教育実践の自由を多様な存在である子ども達に多様な実践で対応できるように、広く保証しなければならない。

 

現在は、あまりにも管理主義が支配しすぎているように思う。教師が教委や校長への計画書や報告書などの書類を書くことに忙殺されて、肝心の子どもたちと触れ合う時間が不足してしまっているのは学校のあり方として、本末転倒である。

子ども好きの教師が忙殺と良心との板ばさみで心を病んでしまうのも子どもにとって不幸であるし、割り切った平目教師が増殖するのも考えものだ。

 

一番の間違いの大本は、学校を株式会社と同じと見ている人たちの存在である。

学校は、種蒔きの場であり、刈り取りの場ではないのだ。目先の結果を追い求める場ではないということを営利追求のプロたちは理解できていないように思う。数字・数字と追いかけてきた数字中毒のような管理者が増殖していて、中毒症状に自覚が無いところが始末が悪い。種蒔きをしないで刈り取りや収穫ばかりを追い求める人だ。当然、その場に荒廃がやってくる。

 

短期の「人づくり」ではなく、長期の「人育て」の場であるということが、まずは基本理解の第一歩だ。一人ひとりに☆自育する力☆の種をまき、根付かせることが目標なのだ。自分自身に“自信”をもてる体験が大切だ。自分の力を信じることができれば、挑戦する心も芽生える。

自信から生まれる、新しい課題に常にチャレンジする心意気こそが“やる気”だ。

自らの新しい課題を自らが捉えることができる力こそを☆学力☆とよぶ。

自信を育てることを☆教育☆と呼ぶ。自身を育てることを“自育”とよぶ。“育自”でもいい。

 

日本の“自育”の伝統を甦らせないと今のままでは日本社会の将来は危うい。