坂本龍馬という150年前の幕末に存在した人物。
この坂本龍馬に対しては僕もそれなりの興味がある。
たった31年間しかこの世に存在しなかった龍馬。
それでもその後の多くの人たちに与えた影響力は、母なる海をも連想させられる。
教科書にも載ることなく歴史を直下し続けるその存在感。
数多くの人がその自画像を龍馬に重ねる。
この魅力を紐解くことはできない。
作り上げられた人物像を覆すことも意味を成さない。
ただそこに闊歩する姿を連想するだけで、人生の肥やしにもなりうる。
おそらく若者の道しるべであるといって良い。
大きな洞察力を持ち、ときには鬱屈と待ち続ける時期も必要だと。
決して真似はできない人生なりとも、それ以上へ進む友にはなりえる。
しかし僕は崇拝者ではない。
高知の生家跡にある喫茶「さいたにや」
ここの「龍馬研究会」なるものに所属するもその活動は頓挫している。
そもそも坂本龍馬への興味は、司馬さんの「竜馬がゆく」で加速した。
龍馬を浮き彫りにした、司馬さんの手腕にやられたといって良い。
特別成し遂げた結論のない中、常に傑物として親しまれる人間臭さ。
身分の根底を覆したその脱出力。
そしてその手紙に見る愛らしさ。
こういったものが魅力として残った。
龍馬の息吹を感じた長崎の坂道。
中岡慎太郎とともに並ぶ龍馬の墓より垣間見た京の街。
高知に訪れたとき、桂浜にある龍馬像の前で、ビール片手にその月夜を味わった。
崇拝者ではないが、それなりの行動に龍馬の匂いをにじませたいと自然に思う。
味わい深き人に。
いにしえ遠い場所から、そんな風が吹いてくる。