1998年の8月20日、僕は旅も終わりに近づく、富山県魚津市の海岸にいた。街の銭湯で汗を流し、さて夕食は何を作るか、などと考えながら、すっきりと晴れ上がることのない空の下、静かに波打つ日本海をぼんやりと眺めていた。
1998年。長野五輪の年である。メダルラッシュで沸いた長野五輪、その時期また別の場所で、着々とその年の快挙へ向かってひた走る一人の若者がいた。
松坂大輔、17歳である。
1980年9月13日、青森県東津軽郡外ヶ浜町にて生を受ける。
父親は大の野球好きだったが、あえて無理やり野球をすすめることはせず息子の思うままにさせていたと言う。
幼少時代は剣道を習い、野球を始めたのは東京都江東区の小学校時代のことで、小学校3年の時、同じ小学校に通う友達から誘われたのがきっかけだったそうだ。
その後、詳しくは知らないのだが、小、中学校時代はそれなりの活躍はしていたらしいが、練習がきらいで「さぼりの松」とか「手抜きの松」などと呼ばれていた時代もあったらしい。
それでもそれなりに突出した選手と見込まれて入学した横浜高校。そこで出会った小倉清一郎野球部長によってその素質をさらに開花させてゆく。
人は出会いによって大きく成長する時がある。松坂の素質を見込んだ小倉は、ほかの部員達の3倍の練習をさせ、松坂を徹底的に鍛えたそうである。
そうこうする内に、徐々にではあるが松坂はその才能の片鱗を見せ始め、2年時には全国の中でも強豪と知られる横浜高校のエースへと上り詰めていった。
誤解されては困るが、これは僕の偏見的考えのもとで書いているものであって、決して松坂がエリート、天才、優遇された選手というわけではない。
そして日本中を熱くさせた長野五輪の熱がようやく冷めかけてきた1998年の春。選抜高校野球大会。松坂は5試合を投げ完封3試合と言う素晴らしい成績を上げ、横浜高校を見事優勝へと導いた。
僕はこの年の選抜高校野球は精神的に不安定な時期だったので、残念ながらあまり見ていなかった。よってデータだけでしか判断が出来ないでいる。
そして夏。
日本海の見える海岸沿いで、ビールを飲みつつ夕食の準備をしていると、つけていたラジオからその日の甲子園のニュースが流れてきた。
夏の甲子園大会、準々決勝、延長17回、PL対横浜の死闘である。
春の選抜高校野球でも接戦を演じた両校の対決は、延長17回の末、再度横浜高校に軍配が上がった。
これを聞いたとき、名前には聞いていた松坂という好投手の存在をあらためて大きく知った。
旅のはじめに岡山県倉敷総合運動場では岡山県の地区予選を見た。北海道では駒大苫小牧の横断幕の横を走りながら甲子園に耳を傾けた。
1998年の夏の甲子園大会は、僕にとっていわば旅と並列して進行していった。
そして2日後の8月22日、夜、僕は京都の舞鶴にいた。市内の小さな川で灯篭流しが行なわれていて、僕も自分の祖先の霊を弔うよう、その灯篭を流してもらった。
夜店が出ている道りを抜け、定食屋ともいえない小さな居酒屋風の店に入ると、外の静寂さとは裏腹に店内は以外にも騒々しかった。
ビールを頼み、つまみを注文して、置いてあった新聞に目を道していると、常連客と思われる4、5人のおっさん達の話し声が耳に入ってきた。
この日は甲子園の決勝の日。松坂が京都成章相手にノーヒットノーランを記録し、春夏連覇を決めた日であった。
そのおっさん達は、声を揃えて京都成章を称えていた。ここは京都なのである。
称える話にも感銘を受けたが、それよりもその松坂という投手をぜひ見たくなった。
翌年、その機会が来る。
注目されたドラフトでは西武、横浜、日ハムの3チームが競合した中、松坂は西武ライオンズに入団。
そして1999年4月7日、東京ドームでの日ハム戦、松坂大輔デビュー。
たまたま仕事が近くだったこともあり、これは見なければと急ぎ友人とドームへ向かった。
初回にいきなり155キロのストレート。輝いて見えた。
それが松坂をはじめて見た時だった。
それからは1998年の旅の思い出と共に、めっきり松坂ファンになってしまう。
ホークスファンだが今でも松坂が先発の時は、あまり打たずに勝ってくれ。などと思ってしまう。
26歳になる今年、横浜との交流戦で、江川を抜くドラフト導入後、最速100勝を達成した松坂。
現行の投手起用の中で、200勝を達成する投手が限られる中、大変立派な成績だが、来シーズンは日本にはいない。
メジャーのどの球団に入団するかわからないが、今までの投手を超える、立派な成績を残してくれるだろう。
そして、あの1998年の夏のような素晴らしい快挙を、ぜひアメリカでも達成してみせてほしい。