昨日は龍田古道を三郷駅を起点に龍田大社へ、そして三郷町役場から龍田大橋へ、そして斑鳩町を西の端から東の端まで歩き、「業平橋」を目指した。

 

風の神様で有名な龍田大社。

 

近鉄信貴山駅下近くにあるこの「観音寺 地蔵菩薩 重要文化財」の標識。いつも不思議に思い、一度役場に聞いてみようと思っていたが、今回聞いてみた。やはり、これは単なる「道標」であった。「観音寺」というお寺は確かにある。しかし ⇒ もなく、とてもそこへ行く道標には見えない。

 

道標のすぐ近くにある地蔵、これはとても「重要文化財」には見えない。で、教えて貰ったところ、これは集落と集落の境界にある地蔵で「重要文化財」とはまったく関係ないとのこと。やはりなあ、おかしい、おかしいと思っていたが教えて貰って疑問が解けた。なんでも聞いてみるものである。

 

 龍田大橋から川上を望む。竜田川は市民の憩いの場、サイクリストやハイキング客などのために川沿いがかなり整備されていて美しい。朱色の欄干の橋がいくつも架かっている。竜田川と言えば、黄葉。

 
千早ふる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平) 

嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけり」(能因法師) 

 

竜田大橋を渡り、国道25号線から一つ北側の道、これも龍田古道の一部のようだが、昔の風情を残した古い家がところどころにある。

 

古い家々がところどころにある旧街道沿いはこんな感じである。

 

道を歩きながら、龍田神社の秋祭りの幟があちらこちらに立っている。三郷町にある龍田大社とどんな関係があるのだろうかと思いながら歩いていたが、たまたま境内の掃除をしている人が神主さんで話を聞くことができた。この龍田神社は龍田大社とは関係なく、法隆寺が作られたときに、西の守り神として建てられたとのこと。ところが紛らわしいことに、この神社の神も「風の神」だそうだ。奈良を歩いていると面白い。神社の神を守るための寺があれば、寺の仏を守るための神社がある。維新の草莽の志士たちは京都に集結していて奈良のことはあまり良く知らなかったのかもしれない。知っていれば、神仏分離令が無理な政策であったことは分かったかもしれない。

 

この神社の境内の一角に「金剛流発祥の地」という碑がある。ここが大和猿楽の一派の発祥の地だそうである。

 

このソテツも境内の一角にあるのだが、非常に大きなもので県指定の天然記念物となっている。

 

龍田神社の拝殿。唐門用の非常に立派なものだが、なぜか鉄筋作りで新しい。聞けば、何年か前に子供が遊んでいて火事を起し、拝殿が焼失してしまったとのこと。そこで鉄筋で建て直したのだそうだ。

 

境内の一角にあった楠の巨木。日本人はどうもこのような「常ならぬもの」を神として祭りたがるようである。木でも岩でもなんでも尋常ならざるものは神となる。本居宣長の言う通りのようだ。

 

斑鳩町の役場。人口は私の町、島本町とあまり変わらない2.7万人の小さな町。なのに、役所の建物は雲泥の差。さすが全国どころか世界ブランドの町、斑鳩町だ。県や国からの補助金が相当入っているのであろう。そう言えば、「飛鳥」も「飛鳥村」と「村」の名前を残している。

 

役場の辺りで道を北に取り、斑鳩文化財センターと藤ノ木古墳を見に行く。文化財センターには出土品のレプリカがたくさん展示されていた。聖徳太子が飛鳥から斑鳩に本拠地を移し、法隆寺を建立する以前からこの地は栄えていたのであろう。恐らく物部の一族を追い出す形で蘇我氏が勢力を伸ばし、蘇我氏の後ろ盾で聖徳太子はこの地を仏教の中心地にしたのかもしれない。

 

石棺の中には太刀、装身具などが二体の被葬者と共に埋葬されていた。


これが馬具の前輪。六世紀後半の世界の最先端技術が駆使されて作られているらしい。王冠などは遠くアフガニスタンに全く似たものがあり、その国際性には目を見張るものがある。


藤ノ木古墳はこのように土饅頭があるだけで、周囲に椅子が置いてあり休憩できるようになっているだけで、これと言ったものはない。ここでお昼のおにぎりを食べ、法隆寺方面に向かう。

 

法隆寺の南の方から望む、五重の塔。

 

法隆寺を囲む土塀。何回か歩いているが、なかなか風情がある。

 

法隆寺東大門を出て真っ直ぐ東側に中宮寺が見えるが、今回は東大門を出てすぐのところの土塀と疎水がある道を北に向かって歩く。今回のハイキングは法隆寺が目的ではないので、周囲を歩くだけである。

 

法隆寺から法輪寺、法起寺へ向かう道の途中にある斑鳩神社。この神社は「天満宮」と書かれているように菅原道真を祭る神社。由緒書きを見ると、面白いことに法隆寺第9代管主湛照(たんしょう)僧都という人が建てたそうだ。この人は菅原道真の後裔であるらしいが、法隆寺の管主が神社を建てる。ここにも日本人の融通無碍さが感じられる。

 

斑鳩神社の正面には天満池というかなり大きな溜池がある。ここからは法隆寺の塔や、遠く二上山、葛城山なども望むことができる。かなりの絶景である。

 

法起寺に到着。法起寺の南側と東側は一面のコスモス畑。コスモスの花が辺り一面に咲き誇り、まるで法起寺を荘厳している感がある。たぶん、ここのコスモスは相当有名なのだろう。本格的なカメラを持った人たちが撮影に来ていた。

 

コスモス畑と法起寺の三重の塔。一見の価値あり。

 

北側から見た法起寺の三重の塔。

 

法起寺を後にして、今日の主の目的地である「業平橋」を目指す。「業平橋」は地図アプリにもない橋。無事発見できるかどうか。ある案内文によると、法起寺を東に行き、富雄川沿いを南に歩くと小さな橋、業平橋があるはずだった。法起寺から東に歩き続けると確かに富雄川に出た。橋は「小泉橋」。この写真は橋から川下を望んで撮ったもの。橋のたもとに中学生の女の子が二人話をしていたので、ひょっとして、ひょっとして知っているかもと思って「業平橋って知ってる?」と聞いてみた。知らなかったようだが、親切な子たちでスマホでいろいろ調べてくれた。しかし、結局、「すみません、分かりません」ということだった。なかなか親切な子たちでこちらが感謝、感謝。で、取り敢えず、川下に向かって歩く。

 

川沿いにしばらく歩くと、上宮遺跡公園という聖徳太子の飽波(あくなみ)宮跡地の推定地がある。何もない公園であるが、聖徳太子の立派な碑が一つ際立っていた。

 

公園の中に太子ゆかりの和歌が一つ。

 

斑鳩の因可(よるか)の池の宜しくも 君を言わねば思ひそ わがする

[意味]斑鳩の因可(よるか)の池のように宜しくも、世間は君をうわさしないので、何かと物思いすることよ。(中西進)

 

富雄川をさらに下ると小さな橋があった。たぶん、これが「業平橋」。橋の名前が書いてあるようだが、古くなっていて、とても読めない。ネットで調べてみたが、人と自転車専用橋となっていたので、この橋なのだろう。

 

川下に少し下ったところに「しんなりひらばし」というのがあったので、たぶん、先ほどの橋が「業平橋」で間違いないと思われる。こちらは車道となっている。やっとハイキングの目的地に着いた。ここからは帰り道となる。

 

以前、法隆寺駅から「新家(にいのみ)」の名前の由来を探るためにこの辺りをかなり歩いた。この阿波神社にもやってきた。主祭神は素盞鳴命(すさのうのみこと)ということであるが、すぐ近くに素盞鳴神社がある。二つの神社の関係はどうなっていたのだろうか。

 

ここが素戔嗚神社。やはり主祭神は素戔嗚(スサノオ)である。天皇家のご先祖は天照大神ということだが、奈良を歩いていて、いつも思うのは天照大神の影の薄さである。奈良は圧倒的にスサノオ=牛頭天皇である。ある意味、この影の薄さが、天皇が「空の存在」であるということと深いところで結び付いているのかもしれない。

 

王寺まで戻ってきた。いつもの大和川沿いの道を歩いて帰る。

 

昨日は、帰り道の最後の方で充電切れとなったので、総歩行距離はこの数字より若干多く、多分、23キロくらいは歩いたと思う。