昨日のハイキングはこの駅から。大和郡山市にある駅。今日の主の目的は、神武天皇以前に奈良を支配していたのではないかと思われるニギハヤヒを祭る矢田坐久志玉比古(やたにいますくしたまひこ)神社である。

 

矢田丘陵の東側を流れる富雄川。そこで見たカワサギ(?)。この鳥については何回かフォロアーの方などに教えて貰っているのだが、未だ正確な名前が覚えられない。大和川やその支流で頻繁に目にしているのだが。飛ぶ姿がなかなか美しい。

 

奈良の川は主流の大和川に限らず、生駒山系と矢田丘陵の間を流れる竜田川も公園化が進み整備されてきているが、この矢田丘陵の東側を流れる富雄川もこのようにサイクリング道が整備されていたり、ハイキング道が整備されていたりする。奈良はただ名所旧跡を訪ねるだけでなく、ハイキングやサイクリングにとても良いところなのである。

 

富雄川沿いにある寺。どこか中華料理店の入り口かと思われるような門。これは永慶寺という寺に併設されている弁財天(七福神の1つ。滅敵・福徳・財宝の女神)を祭る社の入り口。

 

弁財天の社。ちと中国風過ぎるのが気になる。

 

こちらが永慶寺。知らなかったが、この寺は五代将軍綱吉の側用人として有名な柳沢吉保の菩提寺となっている。但し、吉保の遺骨はここにあるわけではなく、吉保の子の吉里のときに転封となり、甲斐の永慶寺も大和郡山に移転されたようで、吉保の遺骨は甲府市の恵林寺にあるとのこと。

 

この山門は郡山城の遺構とのこと。

 

大和郡山にある郡山城跡。奈良の東西及び南の山には山城が多い。バサラ大名として有名な松永弾正が信長に攻められて爆死したと伝えられる信貴山城、また西南には日本三大山城の一つの高取城、奈良の東側には竜王城などがあったが、この城は矢田丘陵の東側の微高地と言うべき丘陵の上に立つ城。ここが柳沢家二代目から明治維新までの居城であった。知らなかったなあ!

 

城内の一角には明治時代に建築されたという旧奈良県立図書館があった。なかなか面白そうな建物なので中を見学させて貰おうと思ったら、日頃は子どもたちの教育施設として使っているようで、土日・祝日しか一般人は中に入れないとのことであった。残念!

 

地元の人たちの間には熱い郡山城復興の機運があるようで、この追手門は郡山市民の手で復元されたとのこと。

 

郡山城から東を見れば奈良が一望できる。また西の方を見れば、矢田丘陵と生駒山系に挟まれた生駒の街並みを見ることが出来る。

 

郡山城は近在で城壁用の石材が集められなかったようで、あちらこちらから様々な石を集めてきたようだ。その中に「さかさ地蔵」と言われているが、地蔵さんまで城壁の中に埋め込んだようだ。案内板の写真では地蔵さんの頭がはっきり分るのだが、私が撮った写真では奥の頭らしきものが分る程度、パッと見では男性のあれに見えて仕方がない。

 

郡山城内には柳沢神社があった。日本では近年でも日露戦争で有名になった東郷平八郎が東郷神社に祭られたりしているが、柳沢神社もその流れにあるようだ。地元の人たちの有名人・柳沢吉保は神社に祭りたいということだったのであろう。なお、郡山城内には、柳沢文庫保存会なるものもあった。

 

神社には、昭和天皇の平和を祈る和歌の碑があった。

 

天地乃神にそ祈る朝なき乃海能ことく尓 波たゝぬ世を

(天地の神にぞ祈る 朝凪の海の如くに 波立たぬ世を)

 

平和を祈る天皇の祈りは通じず、大東亜戦争に突入してしまったが、天皇の御心は民の心の平安、国の安寧ということである。

 

郡山城を後にして矢田坐久志玉比古神社へ向かう。奈良を歩いていると至るところで歴史を感じさせる民家に出合う。郡山でもこのような民家をところどころで目にした。

 

本日のメインの目的地に着いた。思ったより立派な神社。この神社を訪ねて見たかったのは、神武天皇よりも先に天津神として大和の支配者であったであろう饒速日命(ニギハヤヒノミコト)、たぶんその一の子分格であったであろう長髄彦(ナガスネヒコ)、またニギハヤヒと共にナガスネヒコを裏切り滅ぼし、神武天皇側に寝返ってしまった物部氏に興味があったからである。神武が大阪湾から上陸した時、生駒山の東側で戦い神武軍に打ち勝ち、兄の五瀬命を死に追いやったほどの活躍をしたのがナガスネヒコであった。ナガスネヒコの娘はナガスネヒコを裏切ることになるニギハヤヒの后であった。

 

神社の門はなかなか立派なもの。寺院の山門の趣きである。

 

玉比古神社には面白いものがある。ニギハヤヒが宮を定めるのに天空を舞い、空から天乃羽羽矢(あめのははや)を射たという伝説がある。「空を飛ぶ」という話にあやかったのであろう。ニギハヤヒは「航空神」の祖神となってしまった。額の「航空祖神」という文字は、真珠湾攻撃の実質的な作戦立案者の一人であった源田実という有名な参謀の筆になるもの。また、このプロペラは本物を寄贈して貰ったものということである。

 

帰りのコースで立ち寄るところはあまり考えていなかったが、地図を見ると「奈良県立民族博物館」があり、それは「奈良民族公園」の中にあった。残念ながら特別休館日と言うことで中には入れなかった。公園を散策したが、相当広くて、江戸時代頃の民家を移築展示したものが多くあってなかなか面白かった。

 

公園内は自由に歩くことができたが、月曜日はお休みということで昔の民家などは外からしか見ることはできなかった。

 

奈良のこのような家は私の故郷の三河地方の農家の家とはかなり違う気はするが、屋根を瓦葺きにすれば、それほど差はない。私が子供の頃に住んでいた家や農機具などは今や「民族博物館」に保存される時代となった。「安寿恋しや、ほうれほれ。厨子王恋しや、ほうれほれ」と老女が雀を追う姿は私が幼い頃、祖父と庭で日向ぼっこしながら蓆に広げた稲籾を見ていた頃の情景とあまり変わるものではない。やれやれ、私の故郷は今や「民族博物館」にしかないようだ。

 

奈良は部落毎に多少、家の造りが違っていたようだ。

 

こんな家もあったが、移築されている家は庄屋レベルの家が多いのかもしれない。かなり立派な家が移築展示されている。

 

奈良民族公園を散策して、いよいよ帰途に着く。帰りのコースはどうしようかとgoogle mapを見る。来た道と少し違う道を取って法隆寺の方へ戻るコースを辿るか、はたまた矢田丘陵を越えて南生駒駅の方へ抜けるか。峠道などで日が暮れてくるのは嫌だったが、時間がまだ早く、十分明るいうちに峠を越えられそうなので、矢田丘陵を東から西に南生駒駅の方へ抜けるコースを歩く。途中にある東明寺。この寺、お寺なのに矢田坐久志玉比古神社の「神役」を務めていたという寺。また、『日本書紀』の編纂責任者である舎人親王とも縁の深い寺。今はかなりさびれており、無住職の寺かと思っていた。だが、ちょうど庭の落葉を掃除しているご婦人がいて、「お寺の関係の人ですか、それともボランティアの方ですか」と声をかけると、ボランティアだと言われた。で、「この寺は無住職でしょうね」と言うと「いえいえ、住職さんはいらっしゃいますよ」ということで、いろいろ話を聞いたが、一つ面白い情報をもらった。このお寺、矢田丘陵のかなり高い標高のところにあり、民家はてらの周囲にはない。だが、先のご婦人によると昔はこの辺りに10軒ほど民家があったという。なるほどなあ、と思った。奈良を歩いていると相当標高の高いところに民家がある。今でこそ、民家は下へ下へと移動して行っているが、昔は山の上の方にも民家が多かった。車がなかった時代、田圃で農作業をするために相当の坂道を上り下りしていた昔の人は凄かったと思う。米一俵60キロを背負って相当の勾配のある斜面を何百メートルも登り下りする。葛城山麓を歩きながらその大変さに思いを馳せていただけに、「おお、ここでもか」という思いになった。

 

東明寺から山の中の道を歩き、「矢田山遊びの森」へ出る。ここには二つの池があり、この池は水を湛えていたが、東川にあるもう一つの池は干上がっていた。

 

月曜日のせいか子どもたちの姿はなかった。前回通った時には子供たちの楽しげな声が響いていた。

 

矢田の集落から南生駒方面に抜ける峠道。峠のところに弘法大師参詣道の石柱。人々の弘法大師への思いは深い。高野山への道には人々の道しるべが必要であったであろう。これもその一つか。

 

南生駒方面へ抜ける矢田丘陵の峠道。この道を通るのはこれで3回目くらいか。クルマも通る舗装道路ではあるが、なかなか勾配はきついのである。

 

峠道を抜け、さて南生駒駅から電車で戻るか、さらに歩こうかと思って時計を見ると時間的にはまだ早い。体力的にも余力がある。で、帰りは矢田丘陵と生駒山の間を流れる龍田側に並行して走る道を歩くことにした。時間的余裕はあまりないので、早く王寺に着ける県道の歩道を歩くことにした。

 

日も暮れかかり夕焼けがなかなかきれいだ。

 

奈良の王寺に出るにはもう少し時間がかかると思ったが意外と早く王寺駅近くの大和川に出た。日はほぼ暮れ、大和川にかかる橋にクリスマスのイルミーネーション。沈む夕陽が雲を茜色に染め,少々感動のシーン。

 

これも大和川に架かる橋。青一色のイルミネーションが夜の暗闇の中に光る。日本はキリスト教徒の国でもないが、こういうことは本当に好きなんだなあと思う。コロナだから止めようにはならないようだ。

 

結局、最後まで歩いて帰宅。総歩行距離は31キロほどになった。まあまあよく歩いた。これなら、来年の春から夏、日が長い季節には40キロ歩行達成も十分可能な気がしてきた。