昨日のハイキングは、二上山博物館に立ち寄るためにこの駅から出発。

 

香芝駅から二上山方面に向かう途中に二上山博物館はある。この博物館は、サヌカイトというガラス質でナイフ形石器を多数展示していることで有名だ。私の関心はナイフ形石器の作り方ではなく、その使われ方、つまり「引き使い」なのか「押し使い」なのかという点であった。学芸員に何度も説明してやっと私の趣旨を理解して貰って、案内して貰ったのがこの石器を使っている模型。

見るからに「引き使い」。そこで学芸員に聞いて見た。これは明らかに「引き」になっているが、「引き使い」の根拠は何かあるかと。すると学芸員は、何を愚かなことを聞くのかという顔で「人間は引く時に最も力が入るでしょう」と言う。そこで、ノコギリとかカンナの例を出し、「引き使い」は日本くらいで他国では「押し使い」。「引く」時に最も力が入るということが普遍的なら、どこの国でも「引く」はずだが、と説明したが、全くピンと来ている様子はなかった。うるさいことを言う奴だという顔をしていたので、早々に引き上げたが、考古学関係者の思い込み、頭の固さを痛切に感じさせられた。石包丁の使い方を他の資料館の学芸員に聞いた時も同じ体験をした。彼らは日本人の道具の使い方が世界共通の普遍的なものだと思い込んでいる。ちょっと観察すれば違いは歴然としているのだが。

 

二上山博物館を後にして、いよいよ二上山ハイキング。二上山は歴史的にも有名だがハイキングコースとしては非常に手頃なのか、非常事態宣言が解除されたためなのか分からないが、ハイキングを楽しむカップル、家族連れが非常に多かった。

 

ハイキング道はこのようにかなり整備されている。

 

所々、このような急な坂道もあるが、先日登った葛城山ほどではなく、普通の運動靴でも大丈夫そうなコース。

 

二上山雄岳の頂上には、かの有名な悲劇の主人公大津皇子の墓がある。

大津皇子が謀叛の罪を着せられ処刑されたのち、姉の大伯皇女が「うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟背いろせが見む」と心打つ歌でも有名な二上山(ここでは「にじょうざん」ではなく「ふたかみやま」と読まれる)である。

 

私は奈良を歩きながらいつも不思議に思っている。二上山は奈良盆地のどこからでも見える。そんな常に見えるところに何故大津皇子を埋葬したのであろうか。二上山を見るたびに大津皇子を死に追いやったことを思い出させられるであろうにと。

 

雄岳の頂上に見晴らしの良いところはない。しかし、ここから雌岳に行くと、「おお、絶景かな、絶景かな!」と感動する。大阪方面も,奈良方面も見える。

 

 

動画も上げておこう。


 

二上山を後にして竹内街道に出て太子町に向かう。まず立ち寄ったのが街道沿いにある竹内街道歴史資料館。ここで、太子町の観光地図を貰い、ここからは天皇陵や寺院巡りのハイキング。

 

まず参拝したのが中大兄皇子に見捨てられ孤独のうちに難波宮でなくなったと言われる孝徳天皇の御陵。竹内街道歴史資料館からほど近いところにある。

 

次に向かったのが遣隋使として有名な小野妹子の墓。墓というより墳墓。この急な階段をかなり登ったところにある。

 

階段を登り切ると墳墓があった。

 

小野妹子の墓を後にして二子塚古墳、推古天皇陵へ向かう。二子塚古墳は発掘調査中ということで古墳はこのように丸裸であった。これは推古天皇陵から見た二子塚古墳。

 

こちらが推古天皇陵。

 

この辺りの山々に囲まれた水田風景は美しい。稲刈りが終わったところもあれば終わってないところもある。こちらは終わった後。

たまたま、稲刈りが終わり家族総出で稲の籾を袋に詰めて軽トラックに乗せている家族がいたので、「一反何俵くらい取れるのですか」と聞いて見た。日頃は町で仕事をしていると思われる三十代くらいの男性の応答がどうもトンチンカンだった。で、いろいろ聞いているうちに分かった。今の若者は「一反」とか「一町」と言ってもピンとこないし、「一俵」と言ってもその重さを知らないことを。まあ、当たり前と言えば当たり前か。一家の老人がボソボソと「今時、こんな状況では稲作などやる気は失せるよ」という趣旨のことを言われていた。それはそうだと思う。サラリーマンで貰う給料分を田畑をやって稼ごうとしても今時至難の技であろうから。

 

しかし、奈良の山間の田園風景は美しい。

 

推古天皇陵を後にして敏達天皇陵に向かう。

 

敏達天皇陵を参拝して、いよいよ聖徳太子御廟で有名な叡福寺へ向かう。かなり立派なお寺。

 

聖徳太子の御廟は神社とお寺の折衷的な作りのようだ。このお寺は聖徳太子を祭るということが中心で、仏教も神道も何でもありといういかにも神仏習合の日本的寺院のようだ。ここは弘法大師とも深い縁がありそうで、弘法大師像もあった。

 

 叡福寺を後にして用明天皇陵に向かう。

 

太子町にも蘇我馬子の墓と伝えられる伝蘇我馬子墓を見に行く。この辺りにあるはずだがと思いつつ、たまたま庭で仕事をしているご婦人がいたので聞いて見たら、目の前にあるものを指差して「それですよ」と教えてくれた。「植木家墳墓」となっているが、良く読めば蘇我馬子、また小野妹子の墓との言い伝えもあると書いてあった。

奈良の明日香に対して、河内の飛鳥は「近つ飛鳥」と言い、この辺りは蘇我氏の本拠地であったのであろう。飛鳥が大阪にも奈良にもあって実に紛らわしい。「飛鳥ワイン」と聞けば奈良のワインかと思ってしまうが、葛城山の大阪側山麓で栽培されているブドウから造られている。物部氏も元々は生駒山の東側山麓が本拠地で、石上神社のある天理の方へ本拠地が移っていたと思われるが、蘇我氏も同様に葛城山東側が本拠地であったのであろう。葛城山の奈良側にはすでに豪族葛城氏がいた。

 

それにしても蘇我の本拠地にこれだけ蘇我氏の女を妻にした天皇や聖徳太子の御陵があるということは、日本の天皇家がいかに外祖父政治にならざるを得なかったかの一つの証拠のようにも私には思われる。日本の皇室のあり方を考えることは、即ち日本人という世界に稀にみる心性を持った日本人を考えるということでもある。そんなことを考えながら奈良を歩いている。

 

今回のハイキングの予定は全て終わり。帰途につく。沈みゆく太陽の光に照らされた雲が実に面白い。空に様々な絵を描いてくれる雲を見るのがハイキングの楽しみの一つになった。

 

何度目かの上ノ太子駅に到着。ここから電車で帰る。

 

 

今回の総歩行距離。