今日は柏原市立歴史資料館へ行ってきた。目的は、この資料館にも展示されている縄文時代の土器や弥生時代の石包丁を見ながら、学芸員の人に土器の作り方、特に外傾接合、内傾接合について聞く事と、石包丁の使い方が刃の付け方から分かるかどうかを聞く事であった。これは、長年の私のテーマである「引きの文化」は縄文時代まで遡るであろうという私の仮説検証のためである。

 

資料館はこの古墳群の公園の中にあった。いやあ、沢山の古墳があった。

 

私の子供時代、近くの洞窟が子供たちの遊び場、探検場所になっていたが、この古墳群も昔は子供たちが隠れ家にしたり、探検場所にしたりしていたのではないであろうか。このような古墳(古代人の墓)が数十もあちこちにある。

 

それはそうと、石包丁の使い方、本を読んで分かることは、稲の穂を石包丁を捻ってはねるようにして切るということだけで、手首を「外に」捻るのか「内に」捻るのか、そこが私の確認したいところなのだが、それが分からない。考古学のプロたちに分かる人がいれば、教えて欲しいわけである。

これはネットから取った写真だが、今日見たのは最初の写真のものか、それと同じものである。紐を通す穴があり、下が刃になっている。この刃の付け方からすると穂を刈るとき、内側に手を捻る、つまり「引く」動作になるのではないかと学芸員の方に言うと、「そうでしょうね」と、全く自信なさげに言われたが、学芸員の人の手の動かし方は全く今の日本人と同じ動作であった。つまり、「引き」の動作である。他の資料館の学芸員の人に聞いた時も同じであった。

 

石包丁は朝鮮半島から入ってきて、穂刈りも朝鮮半島から入ってきたから、どこの国でも同じような動作をする思っている人が多いと思うが、面白い事に「引く」動作をするのは、ほぼ日本人だけなのである。インドネシアやタイでは今でも穂刈りをしているそうだが、バリ島出身の人間が穂刈りを実践している動画を見たら、これが完璧に外にはねるように、つまり「押し」の形で石包丁を使っていた。

 

このように体の動作、手の動かし方が「引き」中心になっているのが、縄文時代まで遡っても同じだとすると、日本人の「引き」の心性は何千年と変わっていないことになる。

 

日本人論を語る私は、それを是非とも確かめたいのである。今のところ、私の関心事を共有してくれそうな考古学の学芸員に出会ったことはないが、そのうち確証が得られるだろうとは思っている。傍証はかなりあるので。

 

因みに、この大型の縄文の土器。素人にはどんな模様をどのようにつけているのか分からない。今日の学芸員の人は、外傾接合、内傾接合については、詳しいことは知らないようであったが、そこはプロ。どのように模様をつけているか聞いたところ、やはり手を「引く」ようにしてつける動作を学芸員の人はした。

 

この資料館のある柏原市だけではなく、八尾、藤井寺、羽曳野など、この本を読むと渡来人だらけで、日本人などいなかったかのような印象を受ける。古墳群も渡来系の豪族の古墳ばかりの印象をうけるのである。だが、この資料館の展示説明パネルの一枚は、はっきりとそれを否定していたので、この点も学芸員の人に確認すると、以前はそういう説もあったが、今は発掘資料が出てくるにつれ、それはほぼ否定されているとのことだった。

 

今日はもう一つの私の関心事である弥生時代の水田がどこまで普及していたかということも聞いてみた。私もそうだったが、ほとんどの日本人は縄文時代が終わり弥生時代には関西を含め、西日本にはこのような水田風景が広がっていたというイメージを植え付けられていると思う。
だが、これは大いなる嘘だと思う。弥生時代はもとより、古墳時代でも水田はかなり少なかったと思われる。記紀歌謡に稲穂はほとんど出てこない。稲穂が詠われ始めるのは万葉集の時代、つまり7世紀〜8世紀頃からだと思われる。
 
日本人の今に続く心性が稲作農耕から始まったかのような「通説」がまかり通っているが、これは大いなる間違いだという私の思いは、単なる思いから確信に変化してきている。
 
奈良を歩く私の日本人の心性を探る旅は、これからも続くが、これは私の仮説を確認する旅でもある。