奈良、葛城。弥生時代の豪族たちの夢の跡。
 
今日は吉野口から葛城方面に向かって歩く。今日の目的の一つは、弥生時代の水田が出たという中西遺跡あたりの風景を確認することが一つだった。このハイキングの集団とは私は何の関係もないが、結構ハイキングが好きな人が多いようで、これは今日のハイキング予定コースなど説明を受けている人々。
 
道の途中で見た桜。これはなに桜? 
 
吉野口から葛城の方へ抜ける丘陵地の道。不便なところだと思うが新しい家を結構目にする。
 
このあたりが弥生時代の水田跡が発見された中西遺跡の筈。この写真では分からないが、この辺りは葛城川から金剛山に向かってかなりの傾斜地の棚田である。この地を拠点としていた鴨氏の神社はここよりかなり標高が高いところにある。弥生時代後期ともなると、相当な土木事業をするだけの技術を持っていたようだ。
 
長柄神社(ながえじんじゃ)
この神社は、国譲りのために派遣された天雅彦命が使命を果たさず、逆に大国主の娘を妻にしてそのまま出雲の国に住みつき、高天原へ復命しなかったという物語があるが、その妻となった下照姫命が祭神となっている。
 
葛城一言主神社
 
葛城一言神社の一言主神は雄略天皇と争った神とされる。これは、雄略天皇の像。
 
葛城古道を一言主神社から九品寺に向かう途中の景観

 

浄土宗、九品寺へ到着

 

この寺の裏山の千体石仏が凄い。菩薩の前掛けは幼くして亡くなった子供や水子供養などを連想するのだが、どうもこの寺の地蔵菩薩は違うようだ。この石仏群は、南北朝時代にこの地を支配していた豪族が南朝方について北朝側と戦ったとき、地元の人たちが味方の身代わりとして奉納したものということで、幼児の死とは関係なさそうだ。だとすれば、なぜ前掛けか。また、問い合わせてみよう。

 

 

九品寺の立派な桜の木。蕾が開き始めている。

 
帰りの駅、御所駅に到着。ここからは電車が帰る。
こうして奈良を歩いているうちに奈良の地形が徐々に分かってきた。奈良は豪族たちが弥生・古墳時代ではかなり標高の高いところに環濠集落などを作って、砦のようなところに住んでいたのであろう。それが、飛鳥時代ともなると、だいぶ標高の低い、飛鳥に都が出来、さらに標高の低い、藤原京へと移り、さらに標高の低い平城京へと都が移動して行ったようだ。
 
弥生時代=水田稲作というイメージが強く、奈良は始めから標高の低い奈良盆地に水田稲作風景、その中心に都という勝手なイメージを作らされていたように思うが、これはかなり違うのではないかと奈良を歩きながら思っている。鍵・唐子遺跡などから鋤・鍬が出たというと、すぐ稲作農業の道具と結びつけられるが、鋤・鍬の用途は主には土木事業用ではなかったのだろうか。また鉄製品などは、戦闘用が主で、農耕道具では相当後まで石包丁や硬い樫の木などを鋤や鍬にしていたようだ。
 
それにしても古代豪族たちは、戦いをやってはいるものの、どうも敵をころして自分が絶対権力を握るという他国の権力闘争の形をやっているようには思えない。日本は、神々の時代から「寄合・談合」政治をやっていたという私の仮説は、恐らく正しいのではないかと、奈良をハイキングしながら考えている。