あしたは立春ということで、きょうは節分。もともとは四季の節目それぞれにあった節分、いまではこの季節だけが残ったかっこうなんですけど、残っているのは豆まきもそうですね。例年の大きな豆まき行事の映像も流れましたし、全国津々浦々でいろんな鬼さんが豆をぶつけられたのではないでしょうか。いろんなおとーさん、お疲れサマでした
さて、節分の豆まきといえば「鬼は外、福は内」という常套句もあります。基本的にはこの言い方ですけど、訳合ってそのように言わない場合もあります。「福は内」とだけ言ったり「福は内、鬼は内」と言ったりする例です。
例えば、毎年10月になるとお世話になる大須観音では鬼のお面が収められているということで「福は内」とだけ唱えますし(こちら
を参照ください)、地名に「鬼」の字がある場所では「福は内、鬼は内」と唱えるようで、これは名前に「鬼」の字を持つ方(鬼頭さんとか鬼塚さんとか)でも同じみたいです。それはそれで至極当然です。鬼は外、なんて自己否定しているのと同じですもん。
まぁ、そういう事情のある場合はまだしも、一般的な「鬼は外、福は内」の文句でいうと、「鬼」っていうのはいったい何なんでしょうか。その時代で「鬼」というメタファー(暗喩)の示すモノは違ってくるものでしょう。そもそも生物としての「鬼」の存在はありませんし、なのに慣例的に豆をまいて「鬼は外」というのならば、その「鬼」というのは自分の周りにあって自分を不幸にする状況になるはず。不景気しかり、怪我や病気もあるでしょう。
ただ、「鬼」の存在というのはそういう外にあるばかりではなく、というよりもむしろそう思えてしまう自分自身の中にあるのではないか、と思ったりもします。端的に言えば邪な心。除夜の鐘のように自分に巣食う邪な思いというのを追い出すためにする豆まきならともかく、爆弾ゲームよろしく厄介者を誰かに背負わせようとして、あるいはほかの誰かを叩くなどしてうっぷんを晴らそうと行なう豆まきだったら、それはいわゆる暴力の連鎖のように鬼を次々と生ませるだけのように思えてきます。そういう意味では節分というのは自らを律したり戒めたりするための一つの機会と捉えたほうがいいのかもしれないですな、うん
…などと考えていたら、岐阜聖徳学園大学のHPで同じような(同じようなっていうのもおこがましいですが)ことを書いてあるところに出くわしました(こちら
からご覧ください)。そもそも、誰かを(それが人間とは違う存在とはいえ)いじめふらかすような仕打ちはあまりいい気分のするものではないですわ。これからは「鬼も内」の心境で過ごす意識が必要になるかもしれません。それはいわば他者への優しさを顕わすことになるにつながるでしょう。自分自身が普通にそうなれるかは疑問ですけど
っていうか、どうでもいいんですが
『うる星やつら』のラムちゃん、豆を撒くほうになるのか撒かれるほうになるのか、どっちなんだか
あ、こんなシメでいいんかって