Dear 皆様,



昨日武本昌三というオレゴン大学のMAを修了し、客員教授としてもオレゴン、アリゾナ、ノースキャロライナ、ロンドン大学でで活躍されていた方の著書『比較文化論』の本を読んでいました。



その本の中に、英語の習得についてこんなことが書いてありました。(以下本文より抜粋)



「Mclain女史(夏目漱石のお孫さんで、the University of Oregonで教授をしていた方)の家には猫が一匹いて、三本足であった。子猫のときに、後ろ足の一本を車に轢かれてしまったので、手術をして切り取ってしまったのだという。

三本足で、庭の散歩から帰ると、ベランダの窓ガラスをノックして、家の中へ入れてもらう。「人間とは違うから、自分が3本足であるということもわかってないのでしょうね」などと、寝そべっている猫のそばで彼女と話し合ったことを覚えている。


英語をなぜ教えるのか、という問題を考えるとき、私はよく思い出すのであるが、外国語を知らないというのは、いわばこの3本足の猫のような状態であるのかもしれない。3本足でも、生きていくのに何の不自由もないから、このままで満足だといわれればそれまでで、第三者がそれ以上とやかくいうべき筋合いのものではない。


しかしこの猫が、猫というものは本来4本足であるべきで、すくなくともそのほうが3本足よりネズミを追いかけるスピードも速く、散歩やデートをしてまわる行動半径も広がり、豊かな一生を送れる、というようなことを考え始めたら、どうしても4本足がほしいと言い張るに違いない。


4本足から見れば、3本足はカッコ悪いということにも気がつくし、より狭い世界でしか生きられぬ惨めさを嘆くであろう。外国語を知らない者には、この嘆きが理解できない。三本足の日本語の世界に閉じ籠って比較の対象をもたないために、あらためて自分自身を客観化して見つめなおすことなど思い浮かぶはずはなく「嘆き」自体、もともと存在しえないのである。(中略)


よく知られているように、ゲーテはそれを「外国語を知らぬものは自国語をも知らないまま。」といった。」





すごい極端な例えではあるけど、確かに英語を勉強していて、日本語の特徴を発見することってありますよねー。単純に「日本語は主語を言わないほうが自然なときがおおいなー」とか。言語学部だったら、それを専門的に分解してくんですが、それは面白くないと思うので書きません(笑)





本日もお読みいただきありがとうございましたにくきゅー




dosankoregonよりドキドキ