無我を哲学的に以前は理解していた。


私が無い…

無色透明の世界だと!理解していた。


すべては、無色透明。


私が自分の感情に振り回されてオドオドしている時、


私は、無色透明すべては無い。だから平静でいられるはず…。

ところが…全く全く平静にならす落ち込んでいったのである!


ますます気分は落ち込んでしまう。

役に立たない!苦しみに飲み込まれてしまう。


本当の無我とは何か?

それは無ではなく、


有と無に分かれる前の無なのである!


思考で捉えた瞬間に、相となる。

名前を付けた瞬間から、相になるのである。


有と無の分かれる前の無なのである!


すなわち主であり、聖なる源であり、あってあるものなのである。


エドガー・ケイシー先生は、言われる。

「神の内に我を無くす」


これが無我!なのであると…。


消そうとしている私の過去の固定観念!

それは…コインの表裏のように物凄く愛しているのである。

物凄く嫌いな過去の記憶と感情は、物凄く執着しているものだし、その時の自分を涙が出る程愛しているのである。


忘れないで!

消さないで!と…。


涙を流して気づく。


「神の内に我を無くす」

その時、表裏もなく、時間も空間も、

そして…あの過ごした忍耐も!無くなって


固定観念を手放せるのである。


残るものは…聖なる源、ハナニム、神と一体になった私である。


祝福の水路となった私である。

ハナニムそのものの明朗となった私である。

笑顔であり喜びの感情そのものである。


「どうか…どうか。私ではなく周りの人々をお救いください。」


あってあるもの!その感情そのものである。