本当に突き動かされているものは霊的理想でありたいと思う。

でも…


時々に、違うものに突き動かされてしまう。

物質的なものに突き動かされてしまう。

お金…

お酒…

名誉…

いいカッコで見られたい…

人と比べてもっといい暮らしがしたい…

もっと欲しいもっと欲しい…


そのなかで霊的理想を忘れてしまう。

ある途時は、霊的理想がそばにあるが、時々物質的なものに突き動かされてしまう。


コンプレックスが影と呼ばれる我々の意識では見えない所でコンプレックスの固まり、過去のなれなかった自分のこだわり、苦しみ悲しみの消極的観念の固まり…


が竜のように蠢き

霊的理想から離そうとしてくることがあるかもしれません。


そんな影の欲望の竜の塊は、消極的観念を持つと力をますようなのです。


なので日常生活において如何なるものもすべて積極的観念で取り組んでいくしかないようなのです。


つまり

我々の本体は真我であり


火にも水にも侵されない見えない存在であり神の一部である分け御霊の存在


いつでとどこでも真我で生きると決めて生きることが積極的観念で取り組む事になるようなのです。


内なる神すなわち私の霊的理想からすべて考える


本当の理想

物質的理想を整えて


それとともに生きて語り死すものであり

いつもそれに突き動かされている理想を


盆栽のように育てて行くのです!

あの美しい盆栽の松のように育てて行くのです!


霊的理想に鍛えられた物質的理想を育てる事がどうやら


真我で生きる事のようなのです。

今の生のコンプレックスは、本当の理想を育てる為の踏み台になるものなのです。


影の欲望の竜がいるからこそ霊的理想が生まれて物質的理想がそれとの関係から鍛えられて


美しい理想となり鍛えられて物質的に実現してくるようなのです。


自分の苦しい過去は、影の欲望の竜を生みましたが

美しい理想の真我の表現の「盆栽の松の木」をも生んだのです。


盆栽が私の小さな人生。

美しい松の木は、私の美しい理想から生まれた現実の人生。


だから竜に突き動かされて生きるのは辞めて見ないようにして向かわす戦わずに、


盆栽の美しい松の木を誠実に、毎日手を入れて育てて行く生き方を選ぼうとしていくのが良いようなのです。


派手な見栄えの良い竜をやっつけて英雄になることを求めないで…


自分だけの

盆栽の松の木を誠実に育てていく


派手ではない生き方が真我で生きるようなのです。


エドガーケーシーが言われた

アカシックレコードに記載されている魂の記録


その個々人の記録は本のようなもので表紙にその魂の理想と遍歴が絵として現れているようなのです。


この表紙の絵

魂が求めてきた理想とその遍歴


これを本当に美しいものにしていきたいですね!


盆栽の美しい松の木のように

育てていきましょう!