【握三下、我愛你】ってどんな話?
《話は、まだまだ始まらないが…》
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これから解説する物語は
レイニー・ヤンが主演すると決定された台湾ドラマの新シリーズの
原作となったストーリーの背景
および、その解説です。
台湾の恋愛小説作家として超有名なチャン・ヤオ(瓊瑤)女史個人のブログに掲載されたところ
記録的なアクセス数をたたき出したという…
それは、
台湾では超有名な数々の大ヒットテレビ映画を作り続けたは映画人同士の
「一夫二妻」45年間の実話を元にしているのだそうで……
???????????
なぜ、台湾の人々の熱狂的な支持を集めたのでしょうか?
なぜ、一流の映画人の彼らは、「愛」として、そのような形態をとったのでしょうか?
ある人は、このように語ります。
『結局、ヒトの愛情とは、一人一人、まったく別の形状をとり、
他人にはまったく理解できないものも数多いもの。
しかし、彼らの「愛」が、
「男女の愛」を完璧に飛び越した
「大いなる愛」を人に感じさせた。
それゆえに、大勢の人々の共感を呼んだのだろう』
大いなる愛????
どんな話でしょうか?
画面左側がリュウ監督、真ん中が作家チャン1988年秋、リュウ・リーリー監督(劉立立)は
原作チャン・ヤオ(瓊瑤)の新作ドラマ《カモメは夕焼け雲の中を飛ぶ:海鷗飛處彩雲飛》
の撮影の為に中国大陸から台湾に戻って来た。抱いているのはヒロインの愛犬。
たしかに、似た感じになってますね。
【背景説明】
リュウ・リーリー監督(劉立立)は作家チャン・ヤオ(瓊瑤)の事業上、もっとも重要なパートナーの一人。
仲良しの姉妹よりも、もっと、仲が良かった。
じつは、リュウ・リーリーは
1938年5月生まれで、作家チャン・ヤオより一ヶ月歳下なのだが、周囲の人々に、チャンより一ヶ月歳上だと、言いふらしていた。
大陸の河北省玉田県の生まれ(この時期、共産政権を嫌った多くの中国人が大陸から台湾に移動して行った。)
台湾の国立系学校である政工幹校の演劇科卒業(蒋介石総統は映画演劇も政治的宣伝戦略の重要項目と見なしていた。この学校の卒業生達の多くが、のちに台湾の芸能界の中軸となっているようだ)
リュウ・リーリーは学校卒業後、1976年、チャン・ヤオが、二度目となる映画会社【巨星影業(香港)】の第一回制作映画 《私はひとひらの雲:我是一片雲》の副監督を務めた。
この映画は、それ以降、彼女たちの二十年にも及ぶ映画人生の最初となった。
しかし、この作品2時間を超える大作となってしまい、(当時の台湾映画界のルールでは、劇場公開映画の制限時間は90分だった)リュウとチャンの二人はレンタル編集室に缶詰となり、カット編集に必死の共同作業をすることとなった。
1978年《一粒のアズキ:一顆紅豆》は、原作者チャンの脚本の力量に後押しされ大ヒットしリュウは監督として一流と呼ばれる立場になった。この後、チャンの巨星影業の作品は、すべてリュウ監督が手掛ける事になる。
同じ頃、のちに「一夫ニ妻」のパートナーになるドン・ジンフー(董今狐)も、同じく
政工幹校の演劇科を卒業し、武侠片と呼ばれるアクション映画を手掛けるようになった。
《一粒のアズキ:一顆紅豆》は作家チャン、監督リュウ、編集リン・チンシャー(林青霞)の三人組で作られた為、彼女たちに付けられたニックネーム《鉄の三角:鐵三角》として知られるようになる。
彼女たちの作った作品は、他の男性監督の作ったモノと明らかな違いがある。
それらは、風格と叙情感にあふれ、繊細で、美しい。見た者に深い感銘を与え心を揺さぶる。
作家チャンは、1983年4月に映画制作のスケジュールが一段落すると、孤独な沈思黙考の生活に入る。
彼女の凄い点は、この時期に長編小説《天国の炎上:失火的天堂》および小作品を綴っている事で、それらは1984年《かつて失われた日々などなかった:不曾失落的日子》,原書名《四季、過ぎた日の私:四季 往事 我》として出版された。
一方でリュウ監督は、銀幕上で連戦連勝。
アクション映画《挑む男:挑夫》《お笑い任侠伝:笑傲江湖》などなどをヒットさせた。
中央電視台の《牽情》と言うシリーズで、あろう事か?作家リー・シャオピン(李曉蘋)と局の上層部で対立が起きてしまい、テレビシリーズは準備が整ったのに、物語が空中分解、一回目から低視聴率。リー・シャオピンとリュウ監督らは、多大な損失を被る事となる。そこで招聘されたのが作家チャン・ヤオ。彼女は、テレビシリーズは初めての経験だったが、秘められていた奥の手があり、座礁していた《牽情》は、見事に再始動に成功した。
やがて視聴率は、だんだん上がり、さらには、八時のゴールデンタイム、競合各社一位の座に立った。〈つづく〉
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