ブログのタイトルにしておきながら、今まで1回も話題にしてこなかった。
ランボーとは詩人のアルチュール・ランボー (Jean-Nicolas-Arthur Rimbaud) のことである。このブログの読者だったら、シルベスター・スタローンのランボーが真っ先に思い浮かぶかと思うが、それはちょっと違う。
でも、ぜんぜん違うというワケではない。スタローンの映画「ランボー」は、デビッド・マレルという小説家が書いた「一人だけの軍隊」が基になっている。この小説の冒頭には、アルチュール・ランボーの詩が引用されているのだ。
つまり、マレルは詩人のランボーへのオマージュで、この小説の主人公の名前をランボーにしたのである。
さて、「地獄の季節」だ。小林秀雄の名訳で、適当に抜粋して紹介したい。
かつては、もし俺の記憶が確かならば、俺の生活は宴であった、誰の心も開き、酒という酒はことごとく流れ出た宴であった。
ある夜、俺は「美」を膝の上に坐らせた。苦々しいヤツだと思った。俺は思いっきり毒づいてやった。
俺は正義に対して武装した・・・
ああ、季節よ、城よ、
無疵なこころが何処にある。
俺の手懸けた幸せの
魔法を誰が逃れよう。
ゴールの鶏の鳴くごとに、
幸福にはお辞儀しろ。
俺はもう何事も希うまい、
命は幸福を食い過ぎた。
身も魂も奪われて、
何をする根もなくなった。
ああ、季節よ、城よ。
この幸福が行くときは、
ああ、おさらばの時だろう。
季節よ、城よ。
もし俺の精神がこの瞬間まで目覚めていてくれたなら、
記憶にもないあの昔、
絶えずはっきり目覚めていてくれたなら、
俺は叡智を満身に浴びて泳いだろうに。・・・
ああ、純潔よ、純潔よ。
もう秋か。それにしても、何故に、永遠の太陽を惜しむのか、俺たちはきよらかな光の発見に心ざす身ではないのか、季節の上に死滅する人々からは遠く離れて。
俺はたぶらかされているのだろうか。俺にとって、慈愛とは死の姉妹であろうか。
最後に、俺はみずから虚偽を食いものにしていた事を謝罪しよう。
さて行くのだ。だが、友の手などあろう筈はない、救いを何処に求めよう。
如何にも、新しい時というものは、何はともあれ、厳しいものだ。
まだまだ前夜だ。流れいる生気とまことの温情とは、すべて受けよう。暁が来たら俺たちは、燃え上がる忍辱の鎧を着て、光り輝く街々に入ろう。
友の手が何だと俺は語ったか。有り難いことには、俺は昔の偽りの愛情を嗤うことが出来るのだ。
さて、俺には、魂の裡にも肉体の裡にも、真実を所有する事が許されよう。
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天才の文章であり、またやはり天才の訳である。こうい文章が書けるようになりたい。