猫のおしゃべり/世界で一番ちっぽけな人 | 泥棒猫の言い分

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↑お借りしましたのニャ(ΦωΦ)

 

 

 

 

 

 

 

人間は相手を判断する際、自分を投影することが多くあります。

 

前回の私の話ですが、私は、ほとんど瞬間的に俺じゃない、と否定するモラ男に、

自分であれば、

と、思ったわけです。

 

あそこまで素早く、全く考えもせずに否定する。

それは自分(つまり私)だったら、「その可能性が絶対にない」と断言出来る場合しかない。

 

なので、そこまでこの人が自分の過失じゃない!と自信を持って言い切るのなら、私のせいなのかな?となっちゃうのです。

 

 

しかし、これは積み重なるとかなりしんどいことになってきました。

だって、私は、

二倍の過失。

を犯している、そういうことにされていたからなのです。

 

 

人間、誰しも失敗やうっかりはあるのです。

きっとモラ男も私も、電気の点けっ放しくらいのうっかりミスは時々しでかしていたはずなのです。そんなものはイーブンです。

いや、それどころか、

あとあと、ヘンに神経質になってやたらと気を付けていた私と違って、モラ男は全く気を付けず、もっと気軽にあちこち点けっぱをやってきたかもしれません。

私はそれらを全部背負わされたというわけです。

 

 

モラ男が「俺じゃない」と言い張った理由は、もうお分かりだと思います。

本当に「俺がやったんじゃないよ、覚えがないよ」というための「俺じゃない」ではありません。

 

「お前のせいにしてやる」

「言い切ればこっちの勝ち」

「俺はミスするような人間じゃない」

 

これなのです。

 

誰がやったかなんて重要ではなく、

いつでも俺は悪くない、これだけなのです。

 

このシステムがお分かりになりますか?

 

 

つまり、

モラハラ人間にとってターゲットは、自分のマイナス部分、

過失であるとか、欠点であるとか、短所であるとか、

そうしたものを全部自分の代わりに背負うための自分の分身。

なのです。

 

 

このタイプの人間と狂気を共有すると、

 

失敗を全くしない人間と二倍の失敗をする人間が出来上がります。

あなたは失敗担当者を押し付けられるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和の始めに、

 

「アナタ作る人、ボク食べる人」

 

というCMがあって、これが男女差別だとされて問題になったようです。

 

 

 

自己愛性人格障害者は、これと同じメンタルを持っていると考えて差し支えありません。

 

 

私はまだ自分の自我を手放さず、モラ男と戦って最後にしっかり縁切り出来ました。期間は短かったのですが、それでもメンタルにかなりの痛手を負いました。

 

しかし、本編での虎キチくんは、

 

アンタはダメなヤツ、アンタはダメなヤツ、アンタはダメなヤツ……。

それに引きかえ私は素晴らしい、私は素晴らしい……。

 

この暗示を20年以上にわたって受け続け、完全に精神を冒されてしまっていました。

愛すべき子どもたち、愛すべき両親、愛すべき女まで犠牲にして、この悪魔を尊重し続けていました。

モラ美のダメな部分を一手に引き受け、モラ美の精神的踏み台として、彼女の自尊心を満たす哀れな道具に成り下がって、生きていました。

 

 

 

 

 

 

 

例えば、

 

脳や心臓は極めて人体の主要な部分として機能しています。

足の小指や肛門は、そう大切じゃなさそうに見えるかもしれません。

 

だからといって、

要らない器官ではありませんし、それらだってそれら部位にしか出来ない能力を持っているのです。

 

脳なら偉いから肛門をバカにしてよし。

 

これが、自己愛性人格障害者の考え方なのです。

 

 

 

 

 

 

 

そして、とても気の毒なことですが、

 

本当は、彼ら、

自己愛性人格障害者こそが、自分をそこまで劣った人間、ちっぽけでダメな人間と認識しているのです。

 

本当に自信のある人間は、他人を踏み台にしなくても自信が持てるのです。

たかだか電気の消し忘れ、そんな過失を認めただけで再起不能なほどにダメになる、そこまで自分に自信がなく、自分が嫌いなのが自己愛性人格障害者なのです。

 

 

 

 

 

 

モラ美はよく、彼女自身を「完璧」だと言ったのだそうです。

 

気の毒な発言です。

 

 

 

 

究極のところ、完璧な人間には、支え合うための相手など必要ではないからです。

 

人間は、誰しも完璧じゃないからこそ、誰かを必要とし、互いに補い合って、幸福となるのですから!