経緯等々書きたいことはたくさんあるけれど、ひとまずそのままに置いておきたいことを置いてみます。

昨日書いて、違う場所に置いた文章。ここにも残しておきたいなと思ったので、そのまま持ってきて貼り付けておきます。

前回書いた時から色々あっての今なので、経緯はおそらくいつか書きますが、まずはそのまま。

 

今の状態を簡潔に書くと、色々あって入院していて、色々あって入院先から実習に参加させてもらっていて、色々ありながら色々考えているところ。みたいな。色々だらけなそんな色々です。

 

以下、昨日書いたことを、ここには載せないと決めている言葉は少し変えて、それ以外は基本的にそのままに。病名は一旦「持病」とでも。「意識状態」というのは持病の特徴的な症状を抽象化したもの、です。

 

2023/10/31 Tue

 

入院してからもうすぐ2週間。あまり実感がない。一瞬だったような気がする。充実、と言い換えたいところだけど、必死、の方が近いかな。色々なことを考える時間になっている。色々なこと、の中身は、忘れないうちに、今のそのままを残せるうちに少しずつ残しておきたいと思っているけれど、今日はひとまず一つ。上手く言葉にできるかわからないけれど、拙くなればそればそれで記録の一部になるからいいや。

 

自分は自分の体で生きていかないといけない。持病とは今すぐにでもお別れしたい、自分の思考の傾向のここを変えたい、というような希望はたくさんあるけれど、だからといって他の人になりたいとは思わない。幸いなことに、自分は自分として生きていきたい、とは思っている。はっきりと理由は言えないけれど、そこを放棄するのはなんだか悔しいし、やっぱり自分は自分だから。

 

自分の体のことはよくわからない。疲労や体調不良は突然意識状態の問題として現れがち。数週間単位の狂う期間としても、夕方に意識を失って次の日の夕方に目が覚める、みたいなよくわからない1日単位の変化としても。後者についてはどう解釈すればいいのか困っていたりするけれど、どれほど大切な用事があったとしても、周囲がどうにか起こそうと大声で呼んでも痛み刺激を加えても微動だにしない、通常の休息状態とは違うものだから、持病に関連したものなのかそれ以外なのかはわからないけれど、自分ではどうしようもないものだと捉えて良いのだと思う。自信を持って言うのもおかしな話だけど、本当にわからない。どうなっているんだ!と叫びたくなるくらい。

 

本当は、普通になりたい。みんなと同じようになりたい、という気持ちでいっぱい。普通、の定義は難しいけれど、いわゆる普通。自分がいる場所にいる集団の、大多数と同じように。今であれば、実習嫌だーとか言いながら、緊張しながら大学に行って、どうにかでも1日を終えて、課題大変だーとか言いながら帰りたい。眠りたい…とか思いながら、夜遅くまで勉強してみたりして、「お疲れ様」が心の底から言えるようになりたい。それができない自分が嫌で仕方がない。周りが羨ましい。毎日目が覚めて1日を過ごすということを、当たり前と思わないくらいに当たり前にしたい。

元気で、動くことが大好きで比較的得意でもあって、何かに熱中したらやりすぎなくらい熱中して、気合と根性でどうにでもする!と心から思うような、そんな頃の自分が記憶の中にいて、そんな自分が好きでもあるから、その自分で過ごせないことが悔しい。

 

それでも、自分が自分である以上、そうしたいと思う通りにはできない。1日はできたとしても、すぐに体がおかしくなる。残念なことにおかしくなる方向性は痛いとか苦しいとか、我慢次第でどうにかできなくもなくもないことではなくて、意識状態がおかしくなる方向。痛みや苦しさの方が楽、という意味ではなくて、楽とか苦痛とか思うところにさえ届かない、というのかな。苦痛であることを認識できなくなる。「自分」がいなくなってしまう形で体は崩れていく。

 

そろそろ諦めないと、と思う。諦める、という表現ではネガティブすぎるかもしれないけれど、受け入れる、受け止める、折り合いをつける。

自分の体は疲労を疲労と感じてからでは遅い。疲労を自覚する能力が低いというのもありそうだけど、疲労の現れ方が一般的ではないのは事実なのだと思う。すぐに意識状態が狂ってしまう。時には、週単位の意識障害につながってしまう。

まだできる、大丈夫。と思っているうちにやめておく、休んでおく、という選択ができるようにならないといけない。そうして元気に過ごせた時は「休まなくても元気でいられたかもしれない」と思ってしまうから、いつも倒れるまでどうしてもやめられないのだけど、そろそろ繰り返さないようにしないと。今のままでは取り返しがつかないような限界を迎えてしまう。

 

今日は目が覚めなかった。昨日の夜リュックを下ろしてすぐ上着も靴も身につけたまま横になって、今日の朝どれほど起こそうとしても微動だにしなかったと聞いた。また意識状態の異常が出てきた。今回は、無視したい気持ちもあるけれど、無視してはいけないとも思っている。それは、意地を張ってこのままの自分を貫くことに不安を抱かずにはいられない出来事があったから。そして、今は入院中で、一緒に考えてくれる人たちが近くにいるから。変わらないと、と思う。今回で変われないと、変わるのはもっと難しくなると思う。

 

そんな気持ちをプライマリーさんが理解してくれて肯定してくれて、自分自身のあり方、過ごし方、にもつながる話で、これからの長い人生に関わることだから、そのうちの数週間だと思えば短いものでは?と話をしてくれた。

 

頑張るものは頑張るの!と理屈も何もない考え方に無理があると気づきながらも今まで無視してきたのは、根拠も何もなく気合と根性で走り切れた時の爽快感が好きだから、という理由もあるし、どれほど無理があってもそうしないとみんなと同じ、ができない。こうでありたいという目標が先にあるから手段なんて選んでいられないよ、と思っているから、とも言えるし、あともう一つは、自分の体で上手く生きていくために、という方向に舵を切ったら、病気が本当に自分の中に入ってきてしまう、という心理的な抵抗があるから、だと思う。この心理的抵抗については感覚的なものでしかないと自覚しているのだけど、発症後すぐが症状が重くて徐々に良くなっていく、と聞いていたから、上手く付き合っていくことを考えるのは上手く付き合っていかなければいけないと決まってしまうようで嫌だ、というのかな。

でも実際には、気合と根性では全然走り切れていなくて、みんなと同じ、にもなれていなくて、目標に合わせて道を決めても道を進めなくて目標は達成できていなくて、持病とうまく付き合っていくことを拒否しても持病は消えてくれてはいない。

仕方がない、という消極的にもとれる言葉を今はどうしても使ってしまうけれど、もう仕方がない。自分の体はそういうものだから。それでも自分は自分の体で生きてみたいと思うのだから。

 

本当はこうでありたい、という気持ちより、実際はこう、という体の現状を優先してみることにする。気持ちを無視するわけではないけれど、気持ちで行動を決めるのはやめてみる。それは無視と何が違うの!と気持ちは思ってしまいそうだけど、まずは大学では、体を最優先にする。無理をしないで、休みながらでいい、と言ってくれる環境を、それが有難くてそれを有難いと思わないと過ごすことができない自分が嫌だと思ってしまってばかりだけど、最大限使わせてもらうことにする。どうしても周りが気になって、周りが気にしていなくても自分が気になって、周りと同じようになりたい、普通になりたいという気持ちが出てきてしまうけれど、そこはもう、自分は自分だから。自分にはそれが必要だから。

 

体を大切にしてみたら、意識状態が狂うことが減って、結果的に自分がしたいことができるようになるかもしれない。「自分」がいなくなる時間が減れば、気持ちが安定するかもしれない。何か気づくことがあるかもしれない。

 

そんな風に上手く進むかはわからないけれど、今の自分を貫こうとしてももう何もできない。そう思うくらいにはこれまで自分を主張して、無理を言ってきた。全て自分が決めたことで、巻き込まれたのは周囲の人たちだけど、それによって自分は苦しんでもきた。気持ちでどうにかしようとは、もう、頑張った。好きでそうしてきたのだから頑張ったと表現するのは自分への甘さかもしれないけれど、持病を発症したこと自体は自分ではどうしようもなかったから。あまりに不器用で反抗的にではあるけれど、他の人であればもっと上手く付き合えたのかもしれないけれど、自分が自分である、という条件の中では、頑張った。今度につなげるという意味での反省点はたくさんあるけれど、こうしなければ良かった、とは思わない。こうしなければ気づけなかった。学べなかった。それは、自分だから。

 

そろそろ違うことを試してみていいのではないかな、と時間がかかりすぎだけどやっと思えたのだと思う。思うしかなかった、も含めて、だけど。

 

こーんなに長く書いておいて、やってみることは、ひとまず明日明後日は午前で実習を終えて帰ることにする。それだけ。笑 それだけ、なのだけど、自分にとっては大きな決断。大丈夫そうでも切り上げるだなんて、今までの自分なら考えられなかった。

自分だけで考えたわけではなく、プライマリーさんがこうすることにしよう!と背中を押してくれて決められたこと、で、本当に小さな小さなことだけど。

こうして良かった、もう少しこうしてみれば良かった、を繰り返して、自分は自分でいたいのに自分でいることが疲れる、なんてことは思わずに、自分でいるの疲れる〜と笑いながらも、それでもそんな自分が嫌いではないかな、といつか思えるようになりたいな。もちろん体が良くなって、こうしたい!という気持ちに体がついてくる日も来てほしいし、体に応じてこうしたい!と思える日も来てほしい。両方を揃えるために、今は後者を練習するとき。前者は来てほしい、と思うものだけど、後者は迎えに行く、というか、自分で試行錯誤できることなのだろうから。

 

心と体を整えつつそんな練習をしつつ、在宅でも安全に過ごせるように模索しつつ、で、入院は数週間続くことになりそう。

自分の体でどう生活するかという部分は疾患に関連した問題(課題)と捉えられるから、その目的のために入院しているというのはいいと思う。誰かに何か聞かれたら私がしっかり説明するから。と言ってくれるプライマリーさんにとても救われて、食べていますか??食べるのと眠るの大事です!と絶対に譲ってくれなくて、飽きるまでいれば〜?とほわほわと話してくれる主治医も大好きで、その他にもこんなわけのわからない状態を見守ってくれる人たちが周りにいる環境を、大切にしたい。

 

ついに反抗期の終焉、かも。反抗期はもはやアイデンティティだから、良い反抗期、になりたい、かな。笑

 

 

こんな長文を書いている時間をあるなら他のことを!と言いそうになるけれど、これは、これ以降は勉強は禁止、と決めた時間から眠れるまでの何もしてはいけないけれど何かをしないと過ぎていかない時間に書いたものなので、セーフ、です。多分。

 

「変わらないと、とは思っている。今回は思っているで止めないで行動に移すとも決めた。そうすると決めた場所(今は実習に関連した場所)ではもう何も、本当はそうはしたくないという気持ちは外に出さない。休む、無理をしない、を肯定してくれる贅沢な環境に自分はいていいのだと思えるように、割り切ることにする。今の自分にはそれが必要で、そうすることで楽になる部分や、得られる気づきがある、はずだから。

それでもどこかでは、本当はこんなの嫌なの!普通になりたい!病気がなければよかったのに!と言ってしまいたくはなってしまう。やっぱり悔しいし悲しいし本当ならこうしたいのに、という気持ちは消えない。今回書いたようなことは病気のせいだけではなくて、自分の性格や考え方の傾向や、いわゆる「甘え」とか「弱さ」みたいなものもきっと関係していて、病気がなかったとしてもいつかどこかでは躓いていたことだと思うから、病気に責任転嫁していないか気をつけないとと意識はするけれど、自分ではどうにもできない病気のせい、という部分があるのは、事実だと思うから。理不尽だ、と思ってしまうのはやめられない。」

 

そんな気持ちをプライマリーさんが「それはそうだよ、それでいいんだよ」と肯定してくれたことが、昨日どうにかこんな文章を書けた理由な気がします。書けた、というほど大したものを書いてはいないけれど。

 

誰かに「それでいい、合っているよ」と肯定されることが、時には「もうこうすることにしよう」と強制してくれることが、自分の表面の部分には不服でも、本当は有り難かったり。提案に反抗しながら実は必要性を理解していたり。

 

一つの事象に、矛盾、ちぐはぐ、相反する、そんな感情を持つのはごく自然なこと、現実ってそんなにシンプルにできていないのよ、という大人たちの言葉を、すんなりは受け入れられなくても、真正面から歯向かうことはそろそろやめてみようかと、思ったり、しなくも、なくも、ない、ような。「大人たち」と言っても、自分ももう大人、なんだよな…。

生じていることは奇異なものでも、抱いている感情は典型的なこの年代のもの!だったりするんだろうな、と思ったりします。そう考えるとなんだか悔しいけれど、悔しがっているのも悔しいから、そろそろやめておきます。