体調が安定している時は、1週間に1つ以上はここで文章を書こうかな、と書いてから数週間。早すぎる目標断念か?と思いそうになるところですが、実はしばらく体調がしっかり不調だったので、今回の間隔の大きさは「体調が安定している時は」と付け加えておいた自分のおかげで目標通り、です。
今日はしっかり不調な期間(病名を書かないことにしているのでなんと呼べばいいのか毎回悩むのですが…適当に症状出現期、とでも)の後の状態について少し。
↑症状出現期とは、ここで書いた「自分が消える」時期のこと。
この期間のことについてはほとんど記憶がありませんが、ほぼ全ての時間を横になって過ごしています。そんな状態が1〜3週間ほど。当然、筋力も体力も呼吸機能も低下します。
冷静に考えると「当然」なのですが、実はその「当たり前」を認めるのに時間がかかってしまいました。
発症するまで寝たきり状態を体験したことがなかったというのも理由の一つだと思いますが、自覚できる低下の形によるところが大きいように感じます。
というのも、低下してはいるけれど全く動けないわけではないのです。少しでも動けるのはとても良いことですが、自分の性格では「動けてしまう」とも言えて、症状出現期から通常の生活に戻るまでの大きな障害となってしまいがちです。
まず、症状出現期から「自分」が戻ってきた時は、時間の流れとして感覚的には1〜3週間経っているとは全く思っていません。昨日眠って今日起きている感覚で、昨日のように動けると認識している。
一方で理解としては、カレンダーや連絡の溜まり具合、その他を通して外界と触れた瞬間に感覚と現実の不一致に気づいて、病識もあるので、自分が思っている日付が社会の時間でいう数日〜数週間前なのだと理解します。
混乱しつつも頭ではわかっている、というような状態です。
次に、知らないうちに時間が経っていることに混乱しつつ混乱を理解で抑えるようにしながら、感覚的には昨日ぶりに、実際には数週間ぶりに外に出て歩いてみます。そうすると、すぐに体の異変に気づきます。この感覚は毎回驚いてしまうし何度経験しても慣れないのですが、体感として強烈なもので、時間が過ぎたことを認めざるをえないような感覚です。
まず、家を出て階段を降りる一歩目で、上の段に残す足がプルプルする。生まれたての子鹿、という表現がよく似合う状態です。平坦な道でもすぐに息が上がり、足を上げているつもりなのに上がっていなくてよく躓く。平衡感覚がなんだかおかしくてほわほわしているような、「歩くのに慣れない」、「歩く」という動作を体が再学習しているような感覚になります。
これらももちろん通常の生活に戻るためには大きな障害となるのですが、元々の筋力が強めな分筋力が低下してもでもある程度動けるという個人的な身体的特徴と、加えて「若さ」の力はどうやらとても大きいらしく(と周りの大人たちがよく熱弁しています)回復力が十二分にあるという無自覚な強み(?)のおかげで、長いときでも1週間程度で明らかに動けないという状態からは回復します。若さってすごい。
ただ、持続的な体力、普通に生活を送る体力はなかなか戻りません。
予定があればそこでは普通に振る舞えるようには割とすぐになるけれど、帰宅した途端に崩れ落ちるように横になってしまって、そこから少しも動けなくなる。ただ立っている・座っているという、元気な時であれば運動として捉えることなどない状態でいることがとてもエネルギーを使うものだと発症してほぼ寝たきりな状態を体験して知りました。
「ぐでー」という擬音語が今のところ一番しっくりくるのですが、体がスライムのようになって、姿勢を保つことが難しい。とにかく疲れていて、だるくて、動けなくなってしまう。
予定があればそこでは普通に振る舞えるのは、感覚と時間軸がずれた世界に合流することに対する緊張がある分気を張って過ごすから、のようです。エネルギーの消耗が激しい瞬間的な動きを無理に繰り返しすかたちでどうにか乗り越えている。いわゆる「気合い」です。その時は精神的にも必死なので無理をしていると自覚することはないのですが、帰宅直後の状態からわかるように代償は大きいです。気合いは一定ですが、疲労は着実に溜まり、あるタイミングで体が地面に沈み込むように重たくなって起き上がれなくなります。仕組みは分かりやすく、ただのエネルギー切れです。
今回の症状出現期のそのタイミングが、今日でした。
今日は大切な予定があって、今日さえ乗り越えられれば、という気持ちで、気合いでどうにかしたかったのですが、目が覚めると体が鉛のように重くて起き上がることさえできませんでした。それからずっと、ぐでーっとして過ごしました。
症状出現期の後は身体はこんなことを繰り返しながら回復していくことが多く、もう少し緩やかに、着実に回復していく方法はないのかとは思うのですが、見つけることができていません。
周りにいる人が「症状出現期明けにすぐに問題なく動いていたのにその後で休むってどういうこと?」と思うのはまあそうだよな、とは思いつつ、何も問題なく元気なはずがないではないか、とも思ってしまったり。それを上手く調整して、説明して、理解や支援を受けられるようにするのは自分自身の役割だとは理解しているのですが、欠席連絡に対する
「昨日までとても意識がはっきりしていて元気そうに見えていたのですが、今日は来られなくて残念」
という返信にひっかかってしまって、ここに書くことで整理しようと考えたという流れでした。
形式的なものでもいいから、体調を気遣うような言葉がほしかった。今日行けなかったことではなくて、しばらくほぼ寝たきりだった状態から昨日までよく来たね、と捉えてほしかった。という思いからくるひっかかりなのだと思います。
それは誰かに求めるようなものではなくて、返信には正論しか書いていないので、つまりはただの八つ当たりです。
「気合いでもなんでも昨日まで来られたのだから今日も気合いで来ればいいではないか」
と言われていると勝手に脳内変換してしまって、今日は感情ではなく身体が休息以外を選択できないような状態だったはずなのに、気持ちの問題だったのではと悩んでしまったりもしたけれど、無理をしない、と自分で決めたこと、自分だって本当は行きたかった、普通に学生をしたかったという気持ちを尊重して、周囲にこう捉えてほしかった、こんな声をかけてほしかった、と思ってしまうものを自分で自分に与えられたらなと思います。
よく頑張っているし、疲れ果てて当たり前。
今すべきなのは無理なものは無理だと自信をもって、頑張れることを全力で頑張ること。
まずはとにかく、ゆーーーーーっくり休む。