久しぶりになってしまいました。

年末にかけての数ヶ月は、色々あって、という表現が合う期間で、書きたいこともその色々に対応する形で色々あったのですが、書きたいと思って、ログインして、実際に書いて、という流れのどこかで(多くはログインの手前で)躓いてしまってここに辿り着くことはありませんでした。

書き始めたらあまり苦労することはなく溜まっていた言葉が出てくるのですが…入って後悔することはないのに入るかーと立ち上がるまでが面倒に感じてしまうお風呂と似たような感覚、というのでしょうか。

 

序盤から自分の表現力のなさにげんなりする比喩を置いてしまいました。

 

さて、本題。

 

2024年。

閏年ですね。夏季オリンピックが開催される年。フランス語の響きが好きで少しだけ勉強しているので、パリオリンピック、楽しみです。

学生として生活していると年度が区切りになるので新年を迎えて意識することは4月よりは多くないのですが、一つの区切りとして、一年を振り返ったり次の一年を見据えたりと考えることはあるような気がします。

 

病気に関しては今年1年の目標は考えないことにしよう、と思います。

目標がないという意味ではなく、目標を設定しないことが目標、という感じ。矛盾しているけれど。

正確には、目標を設定しないという目標以外は目標を設定しない、かな。

いくつかトリガーは判明しているのでそれを避ける、予防という点ではできる限り諸々を整えていきたいな、とは思っていますが、症状については自分ではどうしようもない部分が多くあるから。

 

いきなりですが、私はおそらく、想定外、がとても苦手です。

色々あった、に関連して最近自分の性格・思考の傾向、といった部分について専門的な意見をもらう機会があったのですが、自分が自分についてそう捉えていたように、そこでも同様の指摘を受けました。想定外の事態が苦手。決めたことを決めたように進めていくことが好きで、本来得意でもある。

得意な病気というものは誰にも存在しないけれど、自分が抱えることになってしまった病気は数多ある病気の中でも特に相性が悪かったのだろうね、という話をされて、苦笑しながら納得したりしました。いつどんな形で症状が出るかわからない。トリガーはいくつかは明確になっているけれど、よくわからずに症状が出ることも多々。「傾向と対策」というものが通用しないこの病気のことが、私はとても苦手です。仲良くなれる気が全くしない。

でも、苦手だからなくなってください、せめて性格にあった病気に替えてくださいなんて思いが状況を変えられるはずもなく、苦手だと思い込んでいることが苦手だという気持ちを強めているような、量としてどれほどかはわからないけれどいわゆる「ストレス」として症状の出現や回復の困難さにつながっているような気配は大いに感じているので、この点をどうにかしたいな、と不本意ではあるけれど強めに思ってはいるのです。

そんな背景があって、今年は目標を設定しないことが目標、です。

 

ここから話が変わるようですが変わることはなく、ただ、迂回はします。だいぶ。

 

読むことがどれほど自分にとって大きな存在なのか、という点についてはきっといつか書くことになるのだと思うのですが、私は文章を読むのが好きです。どんな文章でも、長々としていると特に好き。活字中毒というものです。読むのは好きだけれど書こうとするとどうも上手くいかない、という歯痒さを感じてばかりなのが悲しいのですが、活字中毒はこれからも大切にしたい自分の要素です。

積極的に活字に触れるようにすると、時折その時に響く言葉に出会うことがあります。出会ってからずっと響き続ける言葉もあれば、後から振り返るとなぜ響いたのかわからなくなるような言葉も。色々な言葉に出会えてきたことが、自分が今ここで文章を書いていられる大きな理由だと思っています。

 

最近は、“The boy, the mole, the fox and the horse”(by Charlie Mackesy)という本で見つけた言葉が、ずっと響いています。

この本は、少年とモグラ、キツネ、馬の冒険と交流をやわらかい絵と文字で表現した、あたたかく、力強い一冊です。

 

私が好きなのはモグラの言葉。

 

One of our greatest freedoms is how we react to things.

 

川村元気さんの日本語訳ではこう表現されています。

 

何かがおきたときにどうふるまうか。 それこそが、オイラたちに与えられている最高の自由ってもんさ。

 

何をおこすかを自由と表現するのではなく、何かがおきたときにどうふるまうかを自由と捉える。

自分ではコントロールできないことがある。望まないのにおきてしまうことがある。そんな一種の諦めと、それでも自分にできることはある、という自信とのバランスがとても良く表現されているように感じるのです。「自由」という言葉で表現できる器の大きさに圧倒されると同時にこう表現できるようになりたいと憧れるような。登場するキャラクターの中では一番楽しそうであっけらかんとしているように見えるモグラが言う、というのがこの言葉に現実感をもたせているようにも感じます。

ストン、と頭の中に入ってきた言葉です。

 

話が飛んでばかりですが、SNSには闘病アカウント、というものが存在します。私も記録と情報収集のためのアカウントを一つもっていて、病気とともに生活する人たちと日常的に交流しています。このアカウントについてはまたどこかで触れることになると思うのですが、さまざまな考え・思い・価値観に触れる空間です。

 

その中でしばしば考える機会をもらうのは、「仕方がない」という言葉が誰かから聞こえた時。

理不尽とも言える状況に直面する自分を納得させるため。背景にはそんな理由があるのだろうと理解しているのですが、勝手に違和感を抱くことが時々あります。発信者に対して抱く感覚ではなく、自分だったら、と考えた時に限定した違和感です。

 

たしかに、仕方ない、としか表現できないことは多々あります。病気の存在自体が多くは誰にも責任がない「仕方ない」ものですし、受容するためには必要な感覚だと思っています。悔しくて、情けないとも感じてしまうことだから、「仕方ない」の一言で飲み込むのはとても難しい。自分の体に、自分の手の届かないところで生じる事象があると認める姿勢は、自分の力で何かに立ち向かっていくことと同じくらい、時にはそれよりも、勇敢で、難しいものだと思っています。

 

同時に、その先、を考えると、いつまでも「仕方ない」で済ませていくことはしたくない、とも思うのです。

それは、仕方ないと言えるほどどうにかしようと足掻いたのかという自分への疑念と、どこまでが仕方なくてどこからが自分の責任なのかという疑問と、どんな状況でも自分ができることはあってほしいという願いとがつくる思いです。

これは自分の性格やこだわりが大きく関わっているのだと思いますし、何かがおきたときにどうふるまうかについて選択肢が複数ある状態だから思えることだとも言えるのだと思うので、仕方ない、と受け止めている人を批判する意図は全くなく、あくまでも自分は、です。

 

自分が頑張らないといけないことがある。仕方ない、の外に何かがある。

それは、たとえ大変で苦痛を伴うようなことであったとしても、とても幸せなことだと私は思います。

病気がなければ仕方ないとしか表現できないことも頑張らないといけないこともないのに、という不満を抱くことはあるし、文句を言ってしまうくらいには自分は未熟だけれど、常に仕方なくないこと(ややこしい…=自分にできること)があるはずだと考えられるようになってきました。自己効力感の一欠片ようなもの、と表現できるしれません。

 

いつどんな状態になってしまうかわからないからこそ、仕方ないことに嘆き抗うことで自分でいられる時間を使い果たしてしまうことは避けたい。

今の自分からは程遠い目標ですが、諦観と、それでも・だからこそと立ち上がって進む気概を身につけたい、と思うのです。

 

なので、今年の目標は、何かをおこそうという目標はつくらず、何かがおきたときにどうふるまうかに集中すること、にしてみます。

どうふるまうか、については、入院期間に担当してくださった看護師さんが一緒に悔しがって、悩んで、

「諦めというものが必要になるのは事実だと思う。諦めと表現すると悲観的に聞こえるけれど、かっこよく生きたいよね」

と言葉にしてくれました。「かっこよく」というのは主観的なものですが、主観的なものだからこそ自由に定義することができる。想定外が起きた時にどうふるまうかを決めておけば、想定外が想定内になって想定外は存在しなくなるはず、という理屈です。…うまく表現できないけれど。

 

今の自分はあたふたしていて荒れやすくて自分の思うかっこよさとはかけ離れていて、それが自己嫌悪につながってまた荒れることになる。

理不尽だと怒っても、嘆いても、悔しがってもいい。そうしている自分を否定することはなく労りながら、それでもその理不尽と生きていかなければいけないのだから、どんなときでも凛としてみようではないかと決めておくことにしてみようと思います。ルールとして決めておくことで、そうすることが初めは不本意でしかなくても、何か得るものがあれば、望んでそうするようになるのでは…と都合よく考えてみるのです。

実際に機能するかはわかりませんが、自分がこの人のようになりたい、と思う人たちは凛としていてかっこよく見えるので、目指す方向として、渋々という形になることはあってもすべてに嫌悪感を抱くことはないのではないかな、と思いたいところです。

 

年始早々長々と、結局何を書きたいのかよくわからない文章を書いてしまいましたが、書いておきたいことではあったはずなので書けてよかった、という言葉で終えることにします。