私がノラ猫に興味を持ったのも、そもそも2年ほど前のある日、近所のお婆さんが放し飼いしていた猫が帰って来なくなったことだった。その猫は三件隣りで一人、暮らしているお婆さんが飼っていた猫だ。外を自由に出歩き、食べものと寝る場所はお婆さんに頼って十数年生きていた猫だ。2年前、突然帰って来なくなった。お婆さんは慌てて「迷い猫」の張り紙を嫁いだ娘に作らせ、あちこちに張り紙し、探し歩いていた。
昔、私が中学生の頃飼っていたみよちゃんという猫も同じように放し飼いしていた。ある日を境に私の前から消えた。その時代、猫の放し飼いは一般的な飼い方だったように思う。何の苦情もなかった。そう、ピアノを夜まで弾いても近所から苦情が出たこともなかった。大人たちは高度経済成長で物の生産に忙しく、空は公害スモッグで覆われ、公園や公衆トイレはゴミや落書きだらけで汚かった。細かいところに目が行き届いていない分、子どもも、猫も自由に外で遊ぶことができていた時代だ。
みよちゃんのことを思い出し、今のノラ猫事情をネットで調べてみた。TNRという活動で地域で飼っている猫として放し飼いが許されていることを知った。ノラ猫を見かけたら捕まえて避妊、虚勢した後、捕まえた場所で放す活動だ。TNRを受けた猫は耳にVカットの印があるので印のないノラ猫が対象となる。
なるほど、そういう方法があるんだと思い、近くの公園にノラ猫がいるか見に行ってみた。ちょうど餌やりおばさんが猫に餌を与えているところに遭遇した。おばさんに近寄らないで木の茂みに身体を隠すようにしてこちらを見ている1匹の猫がいた。
私が近づいても丸くなってじっとこちらを見たまま動かない。そしてニャー、ニャーと私に挨拶して来た。おばさんが来ると遠目に距離をとってこちらを見ている。
全身白色の猫だけれど、野良歴が長いのかずいぶん汚れが目立って茶色っぽくなっている。私に寄って来たので頭を撫でると気持ちよさそうにもっと撫でてと頭を寄せてくる。息をする度に鼻をズーズー鳴らしている。
おばさんに「この猫は病気ですか?」と聞くと「いや、ちょっと鼻風邪」「あなたに懐いてるみたいやし、飼ってあげて」と唐突に言われた。「えっ?うーん、、えーっと。。。私が飼うのがこの猫ちゃんにとって幸せかなぁ。。。」としどろもどろになり、突然の猫を飼う話に戸惑った。
おばさんは毎日公園を縄張りにしている猫6匹に餌をあげているということだった。6匹の猫には名前がつけられていた。海老蔵と小春は片時も離れないオシドリ夫婦。佐々木は新入りの子猫とペアを組んでいる。白黒猫はコタロウ。そしてじっと丸くなって木の茂みからこちらを見ているのがはなちゃんだった。はなちゃんは13歳で歯が1本だけ残っている。
おばさんはもう7年、この公園に居ついていいる猫たちに餌をあげ続けていると言った。実はおばさんが飼っていた猫がはなちゃんだった。夏の夜、バルサンを焚くため、はなちゃんを公園に連れて来たら逃げるとおばさんは私に打ち明けた。これまで同じように3回逃げたらしい。はなちゃんを家に連れて帰らず、公園を住処にうずくまっているはなちゃんに餌を与えつづけていたのだった。
ある日の夜、公園ではなちゃんと仲良くしているところにおばさんがやって来た。私に「そのまま捕まえて私に渡して」と言うのではなちゃんを抱きかかえておばさんに渡そうとしたら急にはなちゃんが嫌がって逃げようとした。逃げないように少し力を入れて捕まえたままおばさんに渡したら、おばさんははなちゃんをぎゅっときつく抱いて、しばらくしてから放した。はなちゃんは私からも少し距離を取った。それでも私が近づくと離れはしなかったけれど、ああ、はなちゃんに嫌われたと後悔した。
その次の日からはなちゃんを公園で見かけなくなった。おばさんともすれ違いが続いていた。毎夜、公園の木のベンチには餌と水は置かれていて、食べ残りの餌を大きなゴキブリが重なり合いながら食べ漁っていた。
放し飼いで猫が帰って来なくなった3軒隣りのおばさんと立ち話をしている時、公園の猫の餌やりおばさんの話になった。近所の人はみんなおばさんが餌をやっていることを知っていた。でも誰も猫に餌を与えているおばさんの名前も正確な家の場所も知らなかった。近所の人たちは餌やりおばさんに声をかけたことがないということだ。近所付き合いってこんな感じなんだと思った。
はなちゃんとおばさんに会わなくなってひと月ほど経った。やっぱりどこか気になるので、おばさんが私に言った部屋を尋ねてみることにした。マンションのどのポストにも名札にも名前が書かれてない。マンションから出て来たおばさんに「〇〇さんって何号室かわかりますか?」と聞いたら「名前ではわからん」と言うので「公園の猫のおばさんなんですけど」と言ったら「ああ、あの布団干してるとこ」とすぐに教えてくれた。猫のおばさんでわかるくらい有名なんだと知った。
ベルを鳴らすとすぐに返事があった「あのー、公園で猫の、、、」「ああ、ちょっと待って」とすぐにドアが開いて「入ってー」ととても親しげに私を部屋の中に招いてくれた。
2DKの部屋には装飾品のようなものは何もなく、大きめのテレビと位牌だけが私の目を捉えた。そして隣の部屋のあったであろう畳はなく、床が剥き出しになっていて、部屋を仕切っている戸が猫が引っ掻いたのだろうか、貼ってあるシートがビリビリに破れて戸の角がひっかいた跡のようにすり減っている。この有り様にちょっと気持ちが引いた。
「はなちゃん、死んでん」
「えっ?」
「はなちゃん8月19日に死んでん。。。
悲しくて悲しくて調子悪なって寝込んでたんよ。。」
とおばさんは言った。
おばさんははなちゃんが死んだ悲しみを私と分かち合おうとしたらしく「公園に何回か行ったけど会えへんかったわ」と言った。
はなちゃんは急に様態が悪くなって病院で5本注射して薬も飲ませたけれど、死んでしまったとおばさんは病院に連れて行ったのが悪かったかもしれないと悔やんでいた。1万いくらの領収書を私に見せた。お金に困っていると言う。
「でも、はなちゃんは最後、ノラ猫で野垂れ死じゃなくて、おばさんのところで見守られて亡くなったんだったら、それで幸せだったんではないですか」
と私はおばさんに言ったら
「私、はなちゃんに自分を見てたんやと思うわ。。。」
とおばさんは呟いた。
聞くと、おばさんは精神障害2級の手帳を持っていて身体もあちこち悪くいろんな薬を飲んでいると言った。生活保護を受けていて歯も無い。お婆さんに見えたけれど、おばさんはもうすぐ63歳だと言った。思わず
「えーっ!!まだ若いじゃないですか!!!」と言ってしまった。
「そうやん、病気疲れでこんなに老けてしもてんねん」とおばさんは言って私が持っていった缶サイダーを「飲んでいい?」と断ってから気持ちよさそうに飲んだ。
おばさんはこれまでずっと猫を飼い続けてきたそうだ。公園の猫の餌やりをして町内会で嫌われているらしく(公園のゴミのことで町内会の会長さんと話した時、おばさんの話が出た)仲間が見つからないのかだろう。TNR活動すれば行政から避妊、去勢手術を2500円で受けることができるのに、しようとしない。
おばさんは今、黒猫を飼っている。一ヶ月前、どこかの活動団体が生後二ヶ月の赤ちゃん黒猫をおばさんに押しつけたのだ。おばさんは精神障害を持つ生活保護者で猫の餌代もままならない。そういったことをどう考えてその団体はこのおばさんに猫を押し付けているんだろう。
おばさんはオスの赤ちゃん黒猫の去勢手術代1万5000円を捻出できないので私に相談していた。動物基金やTNRの活動団体の援助を調べてみたが、ネットで宣伝したり、活動したりを条件としているので電話するくらいがやっとのおばさんには無理だろう。おばさんに取って一番ハードルが低いでだろう行政の取り組みを利用するのがいいと勧めてみた。
「3人組んでやろ。。」
「そうなんです。3人でTNR活動するグループ作って区役所に申請したら2500円で手術受けられるんですけど」
「大丈夫」
「。。。。(大丈夫???)。。。。いやー、もうそろそろ、、、発情期になったら困るでしょう?」
「私、大丈夫やから」
「。。。(うーん。。大丈夫や、、ない。。。。)。。。」
それ以上何も言えなかった。
猫の多頭崩壊って、お金も無い、人のつながりも無い、そんな人たちがなんとか生きていこうと猫に繋がりを求めた結果、多頭崩壊していくのかもしれない。これが実情なんだろうなぁと思った。
帰り際「また来て」とおばさんは私に言った。繋がりを求めている。うーん。。。。おばさんとの距離が難しい。多頭崩壊につながらないようにだけ気をつけて見守ろうと思っている。
はなちゃんに自分を見てすがっていたおばさんをはなちゃんは嫌がっていた。これも悲しい事実だった。はなちゃんは野垂れ死の方が幸せだったのかなぁ。。。