賽銭泥棒を警察に捕まえさせる神社がテレビで放映されていた。

 

 神社は賽銭箱に向けて監視カメラ設置した。犯人が誰なのか神社も警察も知っていた。その上で賽銭前の神棚に隠れて賽銭を盗むのを待ち構えた。そして賽銭に手をつけた瞬間に飛び出した。まるで子供のかくれんぼを思わせる。「ドッキリでした」とか「モニタリング」と言って「賽銭盗んじゃダメだよ」と諭すなら愛嬌もあるだろう。

 

 「ハメやがって!」と叫ぶ賽銭泥棒を「何回も来たやろ!」と怒鳴りつけ「逮捕する」と言って手錠を掛けた。

 

 犯人を逮捕して喜んでいる警官6人が嬉しそうに仲良くカツカレーを食べていた。警察の仲間意識を高めるために犯人逮捕があるかのような趣だ。かくれんぼや鬼ごっこの域を出ない幼稚さだ。

 

 30年ほど前の話。私は仕事でいろんな住宅地を訪れていた。ある閑静な新興住宅地を訪問した際、その住宅一帯で玄関に置いた履物がなくなるという話を聞いた。確か、食べ物ではなく、履物だったと記憶している。ひょっとして食べ物だったかも。どちらでもあまり変わりはないが、とにかく何かが無くなるという話だった。その犯人はタヌキだった。タヌキが何の目的で物を盗んだのか、追跡した住人はいなかった。

 

 その話を聞いて私の口からこんな話が飛び出した。

 

「この周辺は都市計画で緻密に計算されて開発された閑静な住宅地でしょう。私が住んでいる都会の下町には道の角々にお地蔵さんが安置されているんですが、この住宅地には一つも見当たらないですね。お地蔵さんへのお賽銭やお供え物って、お地蔵さんのためにあるんじゃなくて、何かの事情で食べられない人や、どうにも困って今すぐに小銭が必要な人のためにあるのだと、そう思います。そういう、何というか、地域全体の心の余裕というか、思いやりというか、そういう役割を担っているんじゃないかと。都市計画で緻密に計算された新興住宅地は能率も効率も良くてホント無駄がないですね。それはそれでいいとは思うんですが、何か、優しさにかけるというか、とても冷たい印象を受けるんです。。。今、改めてお地蔵さんの大切さ思うんですが、この地域に足りないものはお地蔵さんだと。。。お供え物も賽銭もお地蔵さんは必要としていないんです。誰のものでもなくて、強いて言えば、今、困っている人のためにあるのだと、そう思うんです。そういう暗黙の了解を地域全体で共有してこそ治安が維持されるのではないかと私は思うんです。とても大切なことですよね。人として。地域として。。。」

 

 私は自分が話しながら自分の話に感心していた。とても不思議な気分だった。私にはこういうことが時々あるのだ。これは私の考えではなく、教えられている。というか、言わされていると。この時はたぶん、お地蔵さんに言わされたのだと、今はっきりとそう思う。

 

 地域で物が無くなる話をしてくれた主婦は考えもしなかった私の意見にとても納得してくれていたが、あれから地域にお地蔵さんは設置されたのだろうか。

 

 本来、寺や神社はそこに住んだり仕えたりする者のものではない。そして賽銭やお布施、お供え物などもそこに住んだり仕えたりする者のものでもない。それは僧侶であろうと、神主であろうと同じだ。ましてやテレビカメラを設置して罪を暴くことが寺や神社に仕える者のするべき行いでは決してないのだ。