平和な日本で暮らしていると隙だらけになってしまう。それは海外に出ないと気づきにくい脇の甘さ。
隙といえば、ラサでの列に並ぶチベット人。前との間に3cmでも隙を見つければ、まず幼児を投入。その後に親が続く。そして、おじいちゃん、おばあちゃん、家族、友人、親類が続く。あっという間に自分の前に10人くらいは簡単に横入りされてしまうのだ。誰も何も言わない。隙を作ったあんたが間抜けといった感覚だ。
インドのチベット人キャンプでも、バスに乗ること一つが大仕事だった。バスがやってきたら周りの人だかりを押しどけて窓から座席に向かってショール投入。その後で、乗車口からバスに乗り込んでショールで確保した座席に落ち着いて座る。ショールではなく窓から座席に向かって飛び込み、座席をゲットするという手もある。私はこの勝負で座れたことがない。
そういえば一度、座席は確保したことがあった。この椅子取りゲームのルールを無視した非アジア人女に横取りされてしまったのだ。そう、その女は私が座席を確保したショールの上に巨大なお尻を安置させてドッカリ座っていた。It's my seat! Stand up!と繰り返し叫んでも石のように動かない。そのうち横にいたお坊さんが「シャーショ、シャーショ」(放っておきなさい)と言って私に座ることを諦めさせた。
座席には座れなかったが、お坊さんの態度にどこかホッとした。なるほど、外国人がインドの旅でひどく疲れている状況はよくわかる。もう全く余裕がなくなっていることをこのお坊さんは見て取ったのだ。こういうところがチベット人特有の慈悲の精神性なのだと感じた。基盤は強固な弱肉強食社会であっても相手の器の大きさと容量を見て余裕があるのかないのか見極めて対応しているのだ。
ああ、もう一つ思い出した。インドで暮らしていた時のことだ。デリーから北インドのチベットキャンプへ向かうバスに日本人のバックパッカーカップルが乗り込んで来た時のことだ。彼らの座席には先に座っている人がいたのだ。それを見てカップルの女の方が怒り狂って大声で怒鳴っていた。とても聞き取りやすい英語だったのでこれは日本人だとすぐにわかった。よくあるダブルブッキングだったのだ。相手もお金を支払って座席を確保したのだからどっちが悪いという話でもない。でもカップルの女は怒りが収まらず怒鳴り続けていた。結局バス会社のスタッフが用意した別の席にカップルを座らせバスは発車した。
そして途中休憩でお店で飲んだり食べたりした乗客が乗車した時のことだ。ダブルブッキングで先に座っていた人が自分のシートに座ろうとして叫んだ。「誰がここに液体を撒いたの?座れないじゃない!」犯人はあの女だとすぐにみんなわかった。嫌な雰囲気が車内に漂った。しばらくみんな黙っていた。あのカップルも黙って知らん顔している。するとシートに液体をかけられたそのチベット人の女が立ち上がってバスの乗客みんなに向かって英語で言った。
「みなさん、私たちは縁あってこのバスに乗り合わせました。みなさん、気持ちを大きく持ちましょう。一緒に楽しい気分でバスの旅を終えられますよう!」
「ラ、ソー」「ラ、ソー」(「ハイよー」「ハイよー」)
ほとんどの乗客がチベット人だからチベット語で話せばいいのに英語で話したのはあのカップルに聞かせるためだったのだ。私はチベット人のフリをして日本語であの女から話しかけられませんようにと心の中で祈った。あのカップルが日本人だというのは私しか知らない秘密。私は日本人ではないけれど、とても恥ずかしかった。いい経験になった。
椅子取りゲームのルールを無視した非アジア人女も、怒り狂ってシートに液体を撒いた日本人女も、インドに来たことで知らなかった自分の限界を越える貴重な体験を得たのだ。彼女たちは傍目には無様な姿を晒してとてもカッコ悪い。でも、だからこそ、大成功のインドの旅になったのだ。今頃、どこでどんな暮らしをしているんだろう。頼もしくなっているはずだ。
彼女たちのように私も旅で自分の限界を知り広げてもらった。それは自分も知らない自分の囚われを破壊することの連続。壊れて初めて錠がかかっていたことを知る。知らずに自分でかけている錠に気づくことは難しい。相手が見えないからみんなおかしくなる。相手さえわかればあとは手放すだけなのだ。見えない相手を見つけることに比べれば手放すのは簡単過ぎる。