『目醒めるため

  自分の軸で人生を

   ゆっくり、じっくり

    遊んで楽しみながら生活してます。』

 

前回からの続きです。

 

2年の韓国留学を終えて

「私の韓国」への

自分なりの責任は果たした。

 

これから、心置きなく

私のこの人生で

するべきはずだったことに

取り掛かることができる」と

思ったのです。

 

そしてチベットへ行きました。

チベットへ行く経緯を

また過去の過去へ遡って

綴ってみたいと思います。

 

私はピアノの調律という仕事を

しながら何かを常に学んでいました。

 

自分の知らない世界を

知ることが楽しいのです。

 

今から25、6年前だったと思います。

女性のための学校が

できるという話を聞いて

興味津々で見学に行ってみました。

 

そこで結構高額な授業料を払い

フェミニズムを学びました。

 

小西綾さん、駒尺喜美さん、河野貴代美さん、

鄭 暎惠さん、ほか

当時、各界で活躍する主に学者、女性講師陣が

フェミニズムを先導していました。

 

私はこの時、

ゲイを公言する人たちと

初めて出会いました。

 

いかに、女性が差別される不平等社会で

私たち女性が苦難を強いられているかを

さまざまな角度から丁寧に教えてくれました。

 

目から鱗が落ちる思いがしたことを

懐かしく思い出します。

 

その学校で学びながら

私はビデオ制作を通して

自己表現をしていました。

 

当時は

業務用のカメラにしても

編集機材にしても

とても高額で

費用を工面するのが

大変でした。

 

そうする中、社会運動の活動家たちと

出会うようになりました。

 

その当時から「原発反対運動」「死刑廃止運動」

「ゲイ差別反対運動」「障害者差別運動」等々、

いろんな反対運動がありました。

 

私が出会ったのは「反対」の運動家でした。

今から思うと私自身が「反対」が基盤の考え方を

持っていたからそういう人たちを

引き寄せたのだと思います。

 

「反対運動」の活動家と交流する中、

彼らの行動を観察することになりました。

 

その時の私の感想は

「反対運動の活動家って、反対運動のための

ネタ集めが仕事なんだ。。。」と

いうものでした。

 

何か反対の旗をあげると

いっきに多額のお金が集まって来るらしい。

 

そのお金がどう使われているのだろうと

よくよく観察すると

大抵は自分たちの潤った生活を整えた後、

寄付した人たちに報告するための

ネタを追って

さまざまな反対運動の集会に

顔を出すという感じでした。

 

そういう人たちばかりでは

ないでしょうけれど、

私が引き寄せて見た私の現実は

そういう人たちでした。

 

私は突然、

「人権って、

何か敵を設定しないと

成り立たない思想なんだ」

ということに

気がついてしまったのです。

 

自分を支える思想って

崩れてみて初めて

意識化されるんだということを

身をもって知ることになります。

 

私は体調を崩し、

何もできなくなって

しまったのです。

 

何から何までが

わからなくなってしまった。

 

どうやって歩いていたんだろう?

どうやって箸を持って食べていたんだろう?

どうやって息をしていたんだろう?

 

それくらい、何もできなくなって

しまったのです。

 

ひたすら、眠くて

眠っても眠っても

まだ眠る。。。

 

そういう状態の中、

私は自分自身が

二度と崩れることがない

自分自身を支える思想を

必ず掴むと

決意していたのです。

 

出かけては

アナフェラキシショックで

気絶して

駅や図書館から救急車で

病院に運ばれることを

繰り返していました。

 

原因不明のアレルギーで

抗ヒスタミン剤を

常に飲み続けるしかないと

医師は口々に告げました。

 

それは根本的な治療ではなく、

気絶しないために

常に薬を飲み続ければ副作用を伴う。

 

そして、その抗ヒスタミン剤にも

アレルギーを起こしてしまい

私には手立てがなくなってしまいました。

 

眠ってばかりいる生活って

これって生きてるって言える?

眠るために生きてるの?

という思いが自分の中から

フツフツ湧いてくるのでした。

 

そしていろんな本を読み漁り、

まず断食療法に取り掛かることになります。

 

当時、断食療法で難病を治している

有名な先生が近くにいることを知り、

そこに入院して断食療法を学びながら

実践したのでした。

 

みるみる体調が良くなり、

退院したのですが

「お金はいらないから

病院で暮らしなさい」と

先生からお誘いを受けたのです。

 

先生が手を焼いていた

私の同室の患者が

私と共に過ごしているうちに

意識の焦点を日常世界に

合わせることができるようになったことから

先生は

患者の話し相手に役に立つと考えたのです。

 

私は人の役に立つのは

いいことだと

思ったのですが、

またアナフェラキシショックが再発して

気絶するようになってしまったのです。

 

当時一緒に暮らしていた友人が

「先生に恩を返さなくても何も罰は当たらない」

と言ってくれたことを思い出します。

この言葉に私は助けられました。

 

退院後も断食療法を続けていた

あの1995年の正月が過ぎた寒い早朝、

温冷浴をするべく、

水風呂に浸かっていると

風呂桶の水が大きく揺れました。

 

友人が「地震よ。早くお風呂から出てきて」と

お風呂場に来て言いました。

 

阪神淡路大震災でした。

同じマンションに住んでいる人たちは

皆、家財道具が倒れたり壊れたりしたのですが、

不思議にも私たちはコップ一つさえ

割れたりしませんでした。

 

仕事を休業して

カブに乗り、ボランティアに勤しんでいた頃、

マンションの資源ごみに出された本の中から

一冊の本と出会います。

呼吸法の本でした。

 

そして呼吸法の教室に通うことになります。

 

初めて教室に行くその道、

カブに乗っていた私は路面電車の線路に

タイヤが滑り、

バイクと私はそれぞれ

スライディングして

道路の真ん中でうつぶせになって

倒れてしまいました。

 

恥ずかしくて早く立ち上がりたいのに

すぐに立ち上がることができませんでした。

 

足を引きずりながらバイクを起こし、

道路脇で自分の姿を見ると、

手や足、肘、膝が擦りむけて

赤、青、黒色が混ざっていたことを

はっきりと覚えています。

 

こんな姿で呼吸法教室に行けないと

家へ引き返そうとして思い留まります。

 

「このまま帰ったら

私は二度と呼吸教室には行かない」と

思ったのです。

 

断食療法で身体を最短に

健康を回復することができても

それが万全ではないことを知った。

今、呼吸法を捨てたら

他に何もなくなってしまうではないか。

 

「行くしかない」と

決意を固めて

手足ズル剥けの酷い状態のまま

羞恥心も捨てて、

呼吸教室に向かったのでした。

 

授業料を支払い、

教室での体操着を購入し、

着替えてから

先生の言う通りに

身体を動かしながら

ひたすら呼吸をしました。

 

「足の裏から吸って」

「???」

「前に広げて」

「???」

「圧縮して」

「???」

さっぱりわからない。

 

わからないながら2時間が過ぎ

終了ということで

更衣室に入り

着替えようとして

自分の怪我を見たのです。

 

あったはずの

手足の赤や青や黒色が消えている。

 

えっ?目を疑いました。

確かに、バイクで滑って

ズル剥けになって

そのひどい状態を

色が示していたはず。

 

手足の肘や膝の皮が

剥けてはいたのですが

酷い状態が

酷くない状態に変化していたのです。

 

色が極端に薄くなって

怪我も目立たなくなっていました。

 

これは何かあるに違いない。

 

こうして私はやると決めたら

3年は続けるので

この呼吸法を以後、

3年熱心に続けることになります。

 

チベットへ行くことになるまで

まだ続きがあります。