韓国へ語学留学を
2年で終えた私は
何の未練もなく
「私の韓国」と
おさらばしました。

私の人生の限りある時間とお金を
「私の韓国」のために
しっかり使いました。


あー、スッキリした。

韓国語を使うために
語学留学したのではなく
死ぬ時に後悔しないために
単なる知識として
その言葉を習得ではなく
勉強しただけでした。

そんな私とはまるっきり違って
クラスメートたちは
さらなるキャリアアップのために
語学を習得する人が
ほとんどでした。

キャリアアップ以外は
恋人や婚約者が
韓国人だという人たちでした。

先生は
何語に学生が集まってくるかで
経済がわかると言っていました。

つまり、人気のある言語は
その言語を話せることによって
より多くの収入を
得ることができるという話です。

お金で思い出すエピソードを一つ。

ある日の授業中、先生が唐突に
「1億円あったら何に使いますか?」と
尋ねてきたのです。

日本、中国、ロシア、タイ、ベトナム、
イラン、アメリカ、フランス、スウェーデン、
世界各地から集まって来た
私よりずっと若いクラスメートたちは
「貯金」「旅行」がほとんどで
イランの彼が

「お母さんにあげる」と言ったことは

私の印象に強く残っています。

最初に聞かれて

応えられなかった私は
もう、応える必要はないと
世界の若いクラスメートたちの
お金に対する考え方を
部外者となって
ふむふむ聞いていました。

ところが
生徒たちが一通り応えた後、
先生はまた私に聞いてきたのです。

若い彼らではなく
先生は私に聞きたかったのです。

若い学生の応えは
大体予想できていたのです。

お金。
ある程度の快適さを維持するには
お金が必要。

でも心が貧しくならない程度の
快適さを維持するお金があれば
とりあえずは充分だと私は思う。

お金と幸福度が比例する人もいる。

でも必ずかというとそれは違う。
大抵は反比例しているような気がする。

私のお客さまだった
ピアノのあるお家に
今日食べるものも無いという

お家は無く、
快適さを維持するためのお金に
不自由する人はいなかった。

でも
立派なお屋敷の奥さまの方が
より幸せそうに見えたか

というと
そうでもなかったのです。
 

ある時、
私はとても立派なお屋敷の
奥さまに聞いてみたのです。

私を毎年お家に呼ぶことを
楽しみにして下さるような方で、
私を娘のように

可愛がって下さっていて

擬似親子みたいな関係だったから
こんなことが聞けたのですが。。。

「いいですね。

こんなに立派なお家に

お嫁に来られて。

欲しいものは

何でも買えるんでしょう?」

するとその奥さまは
子供を諭すように

「そう思うでしょう。。。
でもね。。

私は嫁に来た立場なのよ。

どういうことかって言うと、
私がお嫁に来る前よりも
もっと

財産を増やしてから
次の代に

渡さなければならないの。

だから、

自分の使いたいように
お金を使うことはできないのよ」と

そっと教えてくれたのでした。

聞いてみないと他人の状況って
ほんと、わからないものだなぁと
実感した一つの出来事でした。

その立派なお屋敷の奥さまは
言ってみれば組織の一員で、
組織を維持するために
自分の人生の全てを
捧げなければならない状況を
語ってくれたのでした。

そこに個人としての幸せ感が
あるのかどうか。
他人からは羨ましがられるだろうけれど
羨ましがられる嬉しさって

果たして幸せなんだろうか。

お金で幸せは買えるのか。

お金って使えるだけの力量がないと
簡単に使い方を誤ってしまう気がする。

お金も言ってみれば
エネルギーの一つでしかない。

エネルギーだと考えると
外側の大きなエネルギーが
押し寄せて来たとして
自分にそれを扱える能力や力量がなければ
飲み込まれてしまうだけなのでは。。。

先生がジッと私を見つめている。
40過ぎになって

何を考えたのか
若い人たちの中に混じって
韓国語を勉強しに

ソウル大学へ日本から来た
ソウル大学学生在日韓国人3世独身不出産女子。


そんな私と出食わした先生は

同世代のソウル大学教授韓国人既婚一男出産女子。

 

全く正反対の価値観を持つ相手に
興味津々だったのです。
この質問は私に投げられた質問でした。

当時の私には1億円を扱える能力が
自分にはないと見切りをつけ、

1億円を誤ることなく使える人。。。
そして応えた。

「ダライ・ラマにお布施します」

途端にクラスメートたちが
「僕にもちょうだい」「私にもちょうだい」と
口々に言ってきた。


先生はジッと私を見つめて

うなづいていた。