文を書くこと
誰かに自分の考えを伝えたい、分かってもらいたい、というとき
論理的思考が必要となる。まさに冷静と情熱のあいだ、である(この作品はみてもいないし、読んでもいないので、検討違いかもしれない)
自己のコントロールが必要となるわけだ。まあ情熱は、信念みたいなものでもあり、文を書くときには論理的思考が牽引していくような形なのかもしれない。
この上なく難しい。
他者の文章を読むときには、文章の道筋、つまりは道路の標識みたいなものをそこまで意識しなくても、誘導してくれる(良い文章の場合)。
しかし、自身が書くときには、この標識を明確に意識しなくてはならない。
文を書くことに熟達していく、ということは、この標識をしっかりと道に打ち立てることとに似ているのかもしれない。
そして、それだけではなく、多層になっている文構造を認識し、精緻化していくことも必要である。割り算でもある。でも割るためには、足す、引くという作業ももちろん前提となる。
そうやって論理的な文章はつくられていくのかもしれない。
頭の良い人はそれを、始めから最後まで一本でいくのだろう。。。
以上は私の単なる一視点であるが。
1ヶ月前の日記
2018.4.4.
難解な本を読むのと同時に、読むのに簡単な、かつ面白い、かつ有益な本を読むこと。難解な本は、深みにはまると、自分は今、何を理解しようとしているのか、だんだん不鮮明になってしまう。読解として容易で面白い本は、頭を柔らかくしてくれるし、難解な部分と大事な部分を結び付けて考察できる(その結び付きが正確なのかどうかは別として、難解な部分もひとまず「仮理解」として置いておくことができる)。
2018.4.3.
これまで、色々なものを積み上げ、貯め込んできた。それにどれだけの価値があるかは分からない。しかし、それらと私の思考との化学反応、そしてこれから私に降りかかるものに対する考えをアウトプットしてみても良いのではないだろうか、という思いで、この文章を書いている。
だれかに見てもらいたい訳ではない。単なる独り言に過ぎない。ただ書くことで整理したい。
2年ぶり
ここ数年、ブログを書かない間、本当に色々なことがあった。
私にとっては我慢の時期であったかもしれない。
それは、今でも変わらないが。
精神的なエネルギーが昔から低い。
何が要因であるのかは分からないが。
生きる喜びなんて難しいことは、未だに分からない。
答えが出ないと前にすすみにくい。
それほど私はバカ真面目なのである。
自覚している。
分からない、分からないなどと言っているうちに年をとる。
年をとってしまったそれ以前の時間は決して戻ることはない。
この我慢の日々が永遠に続くようで、とてもつらい。
動悸は未だにおさまらない。
少しずつ自分のことも周りとのことも、経験を通して理解してきたし、
アリが進むスピードでその手立ても良い方向に変化してきたのではなかろうか。
しかし、ひょっとしたことで、深い深い暗い穴に落ちてしまう。
そこでは、上に点のような光が見えるだけである。
だれも引っ張っては助けてくれない。
穴の底にいると、地上での話し声や笑い声が聞こえてくる。
何日間かそこにいると、地上のことに少し興味が出てくる。
穴から抜け出す。
外の時間は、私が穴にいたことなんか無視するように、
いつものように進んでいる。