超情報化社会「シンギュラリティ」 ~幸福と喪失 1~ | 幻と夢

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歴史・政治・経済に懐疑を投げ、忘れ去られた尊厳を守り抜くため「命と精神の風景」を見つめ直す....






1820年頃は世界人口の84%が貧しい生活だったが、現在では10%を下回っている。産業革命以降、私達の技術や生産性は著しく向上した。携帯電話の所有は60億人を突破し、平均所得も寿命も急激に伸びて、生活は飛躍的に向上している。時代が違うから当然であるし、比較するのは難しいのだが、今や普通の庶民生活が、昔の富裕層よりも豊かになっているほどだ。

ただし、それで私達が真の幸福を手にしたわけではない。
幸福とは??
取り敢えずある程度の豊かさは手中に収めたのかもしれない。労働力と時間を担保に。だが何と、以前にも増して懸命に、より働かなければならなくなってしまった。労働に対して好き嫌いにかかわらず。

現代社会は歯車を止める事が許されないシステムだ。歯車が狂えば、究極には全人類が窮地に陥る。そして飽くなき利潤の追求。だから不平等は、貧困はなくならない。現代の奴隷は間違いなく存在させられている。誰もが楽をしたい。苦しみから逃れたい。その願望は、利己的で、個人の自由を許容した社会が、相対的に矛盾や不平等を伴って実現させている。

それでは個人の自由は排除されるべきなのか、考察が必要になる。今や世界人口は76億人を超える勢いだ。何故人口の話になったかと言えば、例えばヨーロッパの個人の行動規制はアメリカよりも厳しい。そしてアメリカでの個人の行動規制は100年前よりも厳しい。それは人口が、いや厳密には人口密度や民族移動が高まり、相互的な関係が増加し、人びとが頻繁に衝突するようになったからである。一つの要因として、それが基本的な正しい規制が発生する理由である。 

だが、自由と規制が合理的に均衡しているとは思えない。今や自由主義のみでは市場の失敗は必然であるが、リベラル派の多くが失敗の原因を正しく把握出来なければ相互理解は永遠に解決しないだろう。多くは失敗の原因を人為的な障害だとしていることが目立っている。私は右派でも左派でもないが、人口密度が独占の理由だろうか。人口密度が競争を阻害するだろうか。人口密度が完全な情報を遮断するだろうか。それは古典派を否定する材料になり得ない。

ならば人口が根本的な悪しき存在であるのかと言ったら、そんな低レベルでニヒルな話をしているわけではない。事はそんなに単純な問題ではないはずだ。求められるのは調和であるべきが、上手く解け合う事が出来ないでいることだ。個人の利益が「絶対的な所得」ならば、集団の利益は「相対的所得」になる。ロバート・H・フランクが100年後には経済学の祖であろうと断ずるダーウィン「種の起源」が教えてくれるのは、個人の利益と集団の利益はしばしば対立し、剥離しており、人口密度が高くなるほど、他を害する機会も増えることである。要は加害者と被害者は生み出され続ける。

ロバート・H・フランクは市場の失敗とは、進化論的な競争プロセスの論理そのものだと言う。実はアダムスミスの「見えざる手」はスミス自身が完璧な結果を保証していなかったのだ。だが、合理的な考えばかりな行動など出来ない人々に対し、演繹的なモデルだけが独り歩きし、スタンダードとして世を席巻している。

国富論にはこのようにある。

同業者が集まると、楽しみと気晴らしのための集まりであっても、最後にはまず確実に社会に対する陰謀、つまり価格を引き上げる策略の話になるものだ


それでも、私達はある程度は他への害を許容する社会にいる。なぜならば、自由を完全に制限する社会の方が遥かに恐ろしく害であることによる。