昨年4月に書いて下書きのままだったものを再構成しました。


私は、中学時代に「積極性」や「内申」で困った記憶が、ほとんどありません。
でも今、神奈川で中学生の息子を見ていると、内申は「気にしなくていいもの」ではなく、明確に攻略しなくてはならない対象だと痛感します。

4月中学入学直後、Hi-STEPで「内申ってこういうものだよ」というガイダンスを受けました。
実戦的で参考になったので、今日はその話です。

私は、中学受験を経験した、40代中盤のおじさんです。
挫折というか、明確につまずきを感じたのは、高校や大学に入ってからでしょうか。
そのあたりは、このブログのテーマにもつながるので、また少しずつ書いていこうと思います。

それはそれとして、
少なくとも中学時代、内申に強い不安を感じたことはありませんでした。

今思えば、忘れ物はあったし、字は汚いし、減点もそれなりにあったはずです。
それでも、当時はあまり気にする必要がなかった。

というのも、田舎だったこともあり、
進路先の公立高校は、偏差値帯で言えば56くらいから70超までが一緒になった学校だったからです。
実際、今では定員割れすら観測されています。残念な話です。

一方で、神奈川はそうはいきません。

田舎の公立トップ校の層が一つにまとまっているのに対して、
神奈川では、その層が三つか四つに分かれてしまう。
当然、競争はずっとシビアになります。

内申も、みんなが狙いにいく。
小学生の頃の「ふわっとした成績表」の感覚では、まったく太刀打ちできません。

中学で、常に5番以内くらいに楽に入っている人たちが、
トップ校に進むのでしょう。
(これはちゃんと計算して、
「トップ校に行くなら、どのくらいの位置にいなければならないのか」を
はっきり子どもに認識させないと、
giftedでない限り、その意識は自然には芽生えません。)

入試において、一定の点数配分が内申に組み込まれている以上、内申は無視できない。
結局のところ、ゲームの攻略だと思って、向き合うしかありません。

Hi-STEPで受けた「内申ガイダンス」

「内申って、こういうものだよ」というガイダンスがありました。

評点の構成要素や、
何をどれくらいやればいいのか。
やりすぎても仕方ないけど、やらなさすぎるのは論外だよ、という話。

たとえば、before/afterのレポート。

事前に知っていたこと、考えていたこと。
実験や観察を通して、理解が深まったこと。
気づいたこと、考えが修正されたこと。

単なる知識偏重の机上の学びではなく、
自らどんな取り組みをしたのか、
そして、そこから何を発見したのかを、的確に表現しろ、という課題です。

社会でも、
時代ごとの制度や風習、文化史について、
違いや変化、進化を具体的に指摘して記述することが求められます。

そのまま大学の課題に出てきそうな内容です。

そりゃ、A◯を取るのは簡単じゃない。
正直、ペーパーテストである定期テストの方が、よほど取りやすい。

そうした課題と、どう向き合えばいいのか。
怖がりすぎる必要はないけれど、
しっかりやろうね、という助言が丁寧にレクチャーされました。

具体的に先輩のノートを見せてくれてこの位やればA◯だよ。だとか。


結局、半年以上経ちましたが、学校のノート作り、提出物についてはほとんど口を出していません。すこーし求められたら助言をすることはありますが。


息子なりに工夫と努力をして、◯をもらえた、◯をもらえなかったと言って悔しがったり改善したりして取り組んでいます。学校も鬼ではありません。少しずつ成長させることが大事だと思います。


内申に対する恐怖感、不信感、忌避感から中受を選択する向きもありますが、それほど怖がりすぎることもないのでは。健全に取り組んでいれば大丈夫ですよ。今の所、


いずれにしてもレクチャーはとても参考になりました。
Hi-STEP、ありがとう。

1月に入り、
2月中旬の定期テストが、少しずつ気になり始めています。

明日から、学校再開です。

正月休みが終わりました。

大晦日 → 元日 → 2日は長野 → 4日に長野から帰宅。
冬休み中もギリギリまで冬期講習があったので、妻の実家への滞在は数時間ほどになってしまいました。

昨日は少し遅めの時間に帰宅。
息子には、まず「いつもの自宅学習モード」に切り替えるため、ほんの少しだけ課題に取り組ませ、その流れで、今日からの学習スケジュールを一緒に作るよう促しました。

そんな話をしながら、

「何日がテストだねー。
あれ、ここで部活があって、学校があって、
テニスクラブの練習会も入ってるね……」

「わー、忙しいね。
空いてる日はゴリゴリ勉強しなくちゃね」

なんて言い合いながら。

これまで学習スケジュールは、
私が息子の“サボり具合”を見ながら組み立ててきました。

でも、今年の夏頃には、
自分でスケジュールを考えて組み立てられるように、
少しずつ変わっていってほしいなと思っています。

それでも、
学習範囲のワークをコピーしたり、
そういった単に面倒な事務作業については、
当面は親がやってあげるつもりです。

ではまた。

新年あけましておめでとうございます。

冬休みも終盤に差し掛かりました。
ウインタースポーツなどの予定も見据えつつ、大晦日も元日も、息子は嫌がることなく、ほんの少しでも宿題や課題に取り組む姿を見せていました。

数学は東京出版の『レベルアップ中学数学』を中心に数問ずつ。
英語はネイティブキャンプと、あとは学校や塾の宿題。
特別なことをしているわけではありません。

それでも、毎日努力する息子を見て
だんだん「自分の子どもを誇りに思える」感覚を持てるようになってきました。

年末年始、地元の同級生と会い、まだ小さい子どもを抱えている人たちと話す中で、
自分がこれまで息子に、どんなふうにいろいろなことを教えてきたのかを、ふと思い出しました。

そんな折、X(旧Twitter)で、こんな投稿を目にしました。

かけ算の順序問題についてもっともまずいと思うのは、「(数学的には順序がないけど、)教育的に意味がある」と言っている人がいて、それを習得させることはこどものためだと思い込んでいることです。
— 三浦知弘@Brillius(2026年1月1日)

https://x.com/tomohiro_m_cwf/status/2006631863767769425?s=46




いわゆる「かけ算の順序問題」。
毎年のように、延々と議論が繰り返されています。

息子が小さい頃、海辺で丸い石を並べて、
3×5を作り、
縦から見ても横から見ても、同じ数になることを一緒に確認したことを思い出しました。

この議論は、正直かなり不毛です。
そして、そこをきちんと説明できたなら、それで二重丸でいいんじゃないかと、私は思います。

また、算数の「何時に駅に着くためには、何時に出ればよいか」を問う問題についても、こんな例が話題になっていました。

親の教育が行き届いている
小2の娘の解答がこちらです。

https://x.com/125748c/status/2006624613917405356?s=46




もちろん、私ははなまるだと思います。
なぜなら、この問題は本質的には「不等式」で考えるのが適切だからです。
小学校2年生ではまだ習いませんが、実は子供たちはまっとうに考えている可能性が高いです。

これらの話を通じて、
私は日本の公教育を嘆きたいわけではありません。

ただ強く言いたい、思うことがあります。

子どもが各分野について受ける教育機会は、基本的に一度きりで、しかも一瞬です。
そして、その教育機会に対して、ある程度の責任を担ってあげられるのは、保護者しかいません
(学習責任は本人にある、という前提に立ったうえで、ですが)。

減点で悲しんだり、理不尽さに憤ったりしている子どもの答案を、
もう一度一緒に見直してあげて、
ぜひ二重丸、花丸をつけて肯定してあげたい。

そのことが、
やる気につながり、
本当の意味での多様性や柔軟性を育て、そしてやがて「本質を見抜き表現することのできる力」を鍛えることになる。

改めて、そう思いました。


今年も宜しくお願いします。

全くもって私ごとかつ、かなりプライベートな話ですが、
私にとって今年は「健康に向き合うこと」を実行に移した一年でした。

体重を落とすことを一つのKPIにして、
身体を動かすこと、筋トレを含めた生活習慣にきちんと向き合いました。

そんな流れで、筋トレ関係の本もいろいろ読むようになったのですが、
その中でかなり売れた本に
『筋トレが最強のソリューションである』
という一冊があります。





要約すると、
「筋トレしたら幸せになれるから、とにかく筋トレしろ」
という、非常に分かりやすい本です。

その中に、こんな一節があります。

(以下引用)

──自分自身と自分の体に対する自己評価が向上した=自信がついたと解釈しても問題ないだろう。
さらに、この研究からは筋トレをすれば筋トレをしない場合と比べ筋力が向上することもわかる(当然ではあるのだが)。
俺に言わせればこの筋力の向上が何よりも重要だ。
……(中略)
弱いのはメンタルではなくフィジカルなのだ。
メンタルなんてフィジカルの表面に過ぎない。
ということで、考えるな。筋トレしろ。
──

これを読んだとき、
「これ、勉強にもそのまま当てはまるな」
と思いました。

なので、少しだけ、もじってみます。

自分自身と、自分の学力に対する自己評価が向上した。
それを「自信がついた」と解釈しても、何の問題もないでしょう。

そして、勉強をすれば、
勉強をしない場合と比べて学力が向上する。
これもまた、当たり前の話です。

でも、俺に言わせれば、
この学力が向上すること自体が、何よりも重要です。

自信がなくて発言をためらったり、
周囲の目ばかり気にしてしまう人はいないでしょうか。

そういう相談を受けるたびに、
私はだいたい同じ答えをしています。

「勉強しろ」と。

知識と思考力が身についてくると、
「それって根拠は?」「それならこう考えられるよね」
と、自然に頭が動くようになります。

そうなれば、人前でも堂々と話せるし、
他人の評価を必要以上に気にすることも減っていきます。

弱いのは、メンタルじゃない。
学力です。

メンタルなんて、学力の“表面”に過ぎません。

だから、考えすぎるな。
勉強しろ。

そして、ここからは完全に父としての私の話ですが。

Hi-STEPの中学一年生のまとめテストで、
本当に大事なのは順位じゃない。

その内容を、
「100%理解しているか」
「自力で100点を取れる状態か」
そこです。

頑張ろうな。
息子よ。


まとめテストの個人成績表を持ち帰ってきました。

平均点は、
国語81点、数学74点、英語80点。
受験者数は997人です。

第1回のまとめテストと比べると、平均点はやや下がっています。
科目によって差はありますが、おおむね2〜5点程度でしょうか。

この平均点だけを見ても、正直なところ、あまり多くのことは分かりません。
さすがに皆さん優秀で、8割前後は当たり前に取ってくる層なのか。
それとも、上位層が高得点帯に固まり、そこから少し間があって平均点以下がまた分布しているのか。

分布が見えないと判断は難しいですね。

息子本人は、
「塾内で、成績のばらつきが少しずつ大きくなってきている印象がある」
と言っていました。

実際、ネット上でも似たような声はよく見かけます。

たとえば Yahoo!知恵袋には、STEP や Hi-STEP に通う中学生・保護者から、

中1のときはそれなりに取れていたが、
中2に近づくにつれて、模試やまとめテストで順位が動き始めた。

定期テストと塾のテストで結果が大きく違い、戸惑っている。

といった相談が複数投稿されています。

もちろん、知恵袋は個人の体験談であり、
それ自体が統計的な根拠になるものではありません。
ただ、同じ時期――中1後半から中2にかけて――に、
「成績のばらつきが一気に見え始めた」「今までと感触が違う」
という声が繰り返し見られます。

ネットで見かけるこうした話と、
今回のまとめテストを通して息子が感じた
「塾内で成績のばらつきが大きくなってきている印象がある」
という実感は、どこか重なる部分があるようにも思えます。

ただ、この結果自体が何かを強く表しているとも思っていません。
それよりも大事なのは、テストで問われた内容を本当に理解できているかどうか
そこを一番大切にしよう、と伝えました。

これからは、少しずつテストで出題される範囲も広がっていきます。
特に英語と数学。
それに加えて、国語の知識問題もそうですね。

今やっていることの「穴」を、その都度きちんと埋めておかないと、
後になってから埋め直すのは、時間的にも精神的にもかなりきつくなってくる。

それから、こんな話もしました。

分からないことは、他人には分からない。
父である私が考えていることが、息子に分からないように、
息子が何につまずいているかも、実は父には完全には分からない。

これまでは、父がある程度把握できていたかもしれないけれど、
これからは少しずつ距離も離れていく。
だからこそ、自分で「分からない」と気づいたら、
どんどん聞く、調べる、解決する努力をしてほしい。

そんな話をしました。

クリスマスプレゼントの話です。

今年は Tiger and Dragon というボードゲームと、シーサーのシャーペンでした。
親子そろって、まだニヤニヤしながらサンタごっこを続けています。

毎年、息子の「欲しいもの」と、ボードゲームをセットであげています。
別にセットにする必然性があるわけではありません。
単純に、息子が欲しいものと、私があげたいものを両方あげたら楽しいよね、というそれだけの理由です。
ボードゲームなら、3,000円前後から良いものがいくらでもありますし。

ボードゲーム、というよりは卓上ゲームに少しこだわって選んでいます。

というのも、私は息子に「ゲーム渇望症」みたいな状態になってほしくないと思いながら、これまで接してきました。
今の時代で言えば、スマホのネットゲームに依存して、時間と脳みそが溶けていくような状況です。

個人的な感覚ですが、
中学生以降、体力がつき、身体が大きくなり、抽象的な思考が進み始める時期に、
一人で籠もるタイプのテレビゲーム(今ならスマホゲームでしょうか)にどっぷりハマってしまうと、
そうした状態に陥りやすいのではないか、という仮説を持っています。

そしてもう一つ、これは研究で断言されている話ではありませんが、
小学生の間にゲームを強く制限されすぎた子ほど、
思春期に入ってから反動が強く出るのではないか、という感覚もあります。

心理学では、「強く禁止されるほど、その行動への欲求が高まる」という考え方や、
「自分で選ぶ経験が少ないと、後から自己制御が効きにくくなる」という理屈があります。
それらを踏まえると、
ゲームを完全に遠ざけるよりも、
一定のルールの中で付き合い方を身につける方が、長期的には健全なのではないかと感じています。

そのため、小学生の間は一定の時間制限はかけつつも、
Switchのゲームに関しては、ほとんど制限をせずにやらせてきました。

私よりゲームは上手です。
正直、うらやましい。
スマブラでは、今もそして一生ボコされるでしょう。

一つだけ意識していたのは、
「ゲームに垣根を作らない」ということでした。

将棋、どうぶつしょうぎ、囲碁、カタン、ブロックス、ペンタゴ。
ゼルダ、マリオ、Minecraft、スマブラ、テトリス……。

ジャンルを限定せず、いろいろ触れるようにしてきました。

その結果、
ゲームをやらないとイライラする、という状態にはならず、
学習や部活、その他の趣味と同列、もしくは少し後ろに来るくらいの位置づけで、
ゲームと付き合えているように見えます。

小さい頃、妻が「ゲーム脳になっているんじゃないか」と心配していた時期もありましたが、
それとは少し逆の方針を取ってきて、
今のところはうまくいっている気がしています。

ただし、スマホゲームには一切触れさせていません。

もしこのバランスが崩れるようなことがあれば、
またこの話題には触れるかもしれません。

昨年の10月ごろの記事です。

あまり読まれていませんが、Hi-STEPの小6、小5で課された算数の話。

チャレンジコンテストについてです。


たった2、3回のチャレンジでしたが、あの課題に真正面から本人の力だけで取り組んだことは実はかなりの力になってる気がします。


そんな無茶苦茶な難問ではないんですけどね。

文節の前に整理したいこと──日本語は主語がなくても文になる

国語文法は苦手です。

調べる手段も少なく曖昧なまま学校卒業しちゃいました。ごめんなさい。

で、最近チャッピーが何でもかんでも言い切るのでじゃあお前やってみろよっていう形で記事を書いてもらいました。

なので、この記事に責任は持ちません。本当だと思うなら何か別のソースでご確認ください。



文節の話をしていると、必ず一度はこういう疑問にぶつかります。

主語がないと文にならないんじゃないの?
でも日本語って、主語なくても普通に文として成立するよね?

この違和感、正しいです
むしろ、ここに気づかないまま進むと、文節・主語・述語の話はずっと噛み合いません。

日本語は「主語なし」で文が成立する

まず大前提として。
日本語では、主語がなくても文になります。

  • 寒い。
  • 行く。
  • 難しいな。
  • もう無理。

どれも立派な文です。主語はどこにも書いてありません。
つまり、「主語があるかどうか」は文かどうかの条件ではない、ということです。

結論:
「主語があるかどうか」は、文かどうかを決める条件ではない

文を成立させている正体は「述語」

では、何があれば文になるのか。
答えはシンプルで、述語があるかどうかです。

  • 寒い → 形容詞(述語)
  • 行く → 動詞(述語)

日本語は、述語があれば文になる言語です。
主語は省略されるのが前提で、極端に言えば主語は「なくてもいい部品」です。

では、なぜ「たおやかな女性」は文にならないのか

よく混乱する例がこれです。

たおやかな女性
しとやかな所作

これらが文にならない理由は、主語がないからではありません
理由はただ一つ、述語がないからです。

  • 「たおやか」は連体修飾
  • 「女性」を説明しているだけ
  • 言い切っていない

つまりこれは、文ではなく名詞を説明している語のかたまりです。

文にすると、はっきり分かる

少し形を変えてみます。

女性は たおやかだ
所作が たおやかだ

この瞬間、「たおやか」という述語が生まれ、文として成立します。
そして初めて、

  • 女性は|たおやかだ
  • 所作が|たおやかだ

と、文節を考えられる状態になります。

文節は「文の中」でしか存在しない

ここが一番重要なポイントです。
文節は、文の中での区切りです。

文でないものに対して文節を探そうとすること自体がルール外。
だから、文でないものは文節に区切れない、という扱いになります。

「ね」ルールの正しい位置づけ

教科書にある「ね」の説明は、正確にはこう読むべきです。

「文になっているもの」を
「ね」を入れて確認する

「文になっている」という前提が省略されているため、
「ね」だけで判断しようとすると破綻します。
「ね」は万能ルールではなく、確認用ツールです。

まとめ
  • 日本語は主語がなくても文になる
  • 文を成立させているのは述語
  • 述語がないものは文ではない
  • 文でないものは文節に区切れない

文節で迷ったら、まずはここ。
「これ、述語ある?」
この一言を挟むだけで、国語文法の見通しはかなり良くなります。

(中1)息子の成長記録

息子と向き合っていると、
中学一年生の息子が、この一年で本当に大きな成長を遂げていることを、毎日のように感じます。
この記事は、ただのその記録です。

この一年で感じたこと

身長が10センチ以上伸びました。
小学生の頃は小さい方だったのに。

声も低くなりました。
小学生の頃は、あんなに可愛い声だったのに。

ソフトテニスの一年生大会では全勝しました。
チームとしては負けてしまいましたが、今後に期待が持てる内容でした。
練習に頑張って付き合ってきてよかったな、と思います。
少年野球の頃は、ボールが怖くてあまり上手くならなかったのに。

走れるようにもなりました。
気がついたら、昨日は長距離を走ったら置いていかれました。
小学生の頃は、あんなに走るのを嫌がっていたのに。


お友達との関係においては自分の思う様にならないことについて憤慨することもある様ですが、立ち直り関係再構築に取り組むこともできている様です。

小学校の頃に「少し怪しいな」と感じていた学習面の不安も、だいぶ減りました。
Hi-STEPでライバルの存在から、とても良い刺激を受けているようです。
(本ブログの「天才くんシリーズ」の子をライバル視しているらしい。笑)

数学の変化

数学に関しては、「どうやったらできるかな」と、頭で考えられるようになってきました。

少し説明が難しいのですが、やったことのある問題を反射的に解く、という段階ではなく、
やったことのない問題に対して、
・出されている条件は何か
・何を問われているのか
・それを実現するには、どこをいじればよいのか
・どんな場合を考えればよいのか
そういったことを考える抽象的な思考ができ始めているように感じます。

英語は、少し足踏みしている面もありますが、間違いなくサボらずにコツコツ積み重ねています。
この調子なら、英検2級は再来年の5月にはしっかり取れるでしょう。
小学生の頃は、基礎英語を聴いて泣いていたのに。

国語は、文法に少し戸惑っています。
……まあ、仕方ないですよね。だって説明、いい加減なもの多くないですか。
親の私も、正直かなり教えづらいです。笑

12月末を迎え、あと3ヶ月で中学2年生です。