津波の恐ろしさを知って下さい。 | 仙台のどらちゃん(ミ゚o゚ミ)♪

津波の恐ろしさを知って下さい。

何度かブログにアップしましたが、私の気持ちが、段々と蘇ってきたので、


津波に遭った時の事の詳細を書きます。



2011年3月11日


多賀城市八幡を仙台市方向に運転中に、会社の営業車ごと津波に飲まれ、

そのまま300m位流されました。万が一の事が頭をよぎった為、私が通勤で使っている鞄を、たすきがけにしました。

この鞄には、財布などの貴重品と、その日にお客さんからの商品の代金、及び領収書が入っています。 電柱に営業車が引っかかったので、運転席側の窓ガラスを明け、助手席側のドアを足で押して、 車外へ出ました。

たまたま、私の営業車の隣にも、一台の車が流れ付き、停車しました。 ドアの付け根に足を掛けて、(恐らく二時間位)そのままの状態で耐えました。

しかし、日没が近い事もあり、更に身の危険を感じた為、隣の車の屋根へ乗り移りました。 その直前、未開封のチョコレート菓子が流れ着いた為、私は何の躊躇い(ためらい)もなく、 それを掴んで、たすきがけにしている私の鞄へ入れました。

20m程離れているところには、同じ境遇の男性が居て、私は、その方と、声を掛け合いながら、 ひたすら耐えました。

その時のセリフは、私:『おとうさん、大丈夫ですか?』            

男性:『おーう、大丈夫だ!』           

私、男性『さむーい』          

 私 :『俺は、ここで死ぬのか・・・』

そんな中、20時頃に、救助の手漕ぎボートがやってきました。

私:『助けてください』 救助隊『ちょっと待ってくれ!』 まあ、30分位で、船に乗れるのかな、と思いましたが、全く来ない。

頭の中では、『見捨てられた』 そういえば、さっきチョコレートを拾った事を思い出し、口にしました。 のども渇いたので、乗り移った車の屋根の雪を口に含み、水分を補給。

そんな事をしていると、50m位先の民家の二階から懐中電灯で、なにやら私の方を照らしながら、 『もしも、ここまで泳げるのなら、ウチにおいで』と、温かい声。 しかし、冬の海水は、勿論、冷たい。

私『行きたいのですが、もう体力が無いんです・・・』

でも、生きたい(行きたい)一心で、水に、浸かり、歩こうとしました。 が、水の流れは強く、また足には流れているツタの様な物が引っかかり、 一歩も歩く事が出来ないまま、また車の屋根に戻りました。

冷たい海水に首の下は全て浸かり、体の感覚は麻痺しています。

もう、気力だけで耐え忍びました。

そして、23時頃。ようやっと救助のボートが戻った為ので、 再度、救助を依頼しました。

ボートは車に隣接したが、どうやって、私が乗り移るか、瞬時に 考えました。乗り移った車の窓ガラスを、破って、そこを足場にし、やっとボートへ乗りました。

その後、近くにも他の救助を求めている男性が、一人居る事を救助隊に伝えました。

ボートは、私一人しか乗れないので、まずは、近所の民家へ私を下ろし、 すぐに男性の救助へ向かっていただきました。

私と、男性は、近所の民家へ向かい、着替えの服や、食料、そして寝床まで提供してくださったのです。 余震が、続くなか、眠れないまま一夜が過ぎ、翌朝を迎えました。

正直、津波に依る水は、まだひいていないのですが、国道まで出れば何とかなると思い、 7:35am。親切な方の家を出ました。

私が運転していた営業車は、昨夜のまま、電柱に引っかかった状態。 それを横目で見て、国道へ出ました。

国道には、津波で流された車、そして塩臭い泥。

ひたすら仙台方面を向かって、西に歩いていると、一台の個人タクシーが走ってきました。 だめもとで、手を上げたら乗せてくれました。

そのまま勤務先まで向かい、職場へ停めていたバイクを運転し、 3月12日の9:30am頃に自宅へ着き、母親と会う事が出来ました。 幸い、家族は全員無事で安心し、涙が出ました。


中略


そんな生活を送った数日、何気に自分の右足を見たら、痣と傷。



仙台のどらちゃん(ミ゚o゚ミ)♪




冷たい海水に浸かった為に、感覚が麻痺していたみたいですが、

恐らく、色んな物に足が、ぶつかったのでしょう。

また、両手、両足の全ての指先の感覚が、おかしく、強く握る事が出来ません。

これが、地震当日を振り返った私の現状です。