大多数の、悪人でない、いわゆる“善人”だとか“普通”と言われる人達は、自己憐憫という病に罹りがちである。
これは自分がいかに苦しんだか、悲しんだか、可哀想かといった被害者意識であり、それを相手にわかってほしい、認めてほしい、慰めてほしいといった依存心が強い。
こうした人たちというのは「相手が」ばかりを言う。
“こんなことをされた”、“あんなことを言われた”が非常に多く、自分はどう在ったか、自分はどのような意識でいたかということに意識が向かっておらず、自分に起こることは自分に原因がある(因果応報)という認識が恒常的に欠けている。
この“相手のせい”、“自分は被害者”といった恨みつらみの中を人は何年も、何十年もループしている。
これら自己憐憫の裏側には“自分は正しい”、“間違っていない”という思い込みと傲慢があるのだが、人はそれを認めることも気づくこともなく“可哀想な自分”に酔ってしまっている。慰められたり可哀想がられることを自分の慰みにしているようだ。
悪を働いた者が自分を省みることは難しい事ではないが、自己憐憫に陥った人が自分を省みることは難しい。悪に堕ちた者よりも、善に堕ちた者のほうが厄介なようである。
自分に起こることはすべて“自分のため”、または“自分が原因”であり、そこには、出来事を起こしているおかげ様達の意図がある。
その働きに気付けるか否かで人生や世界の観え方は大きく変わってくるようだ。