G2 8月 6日(金) 13時18分配信 / 国内 - 政治 

筋の通った保守の不在」こそ、
今日の政治が低迷する最大の原因ではないか……、
そう考えた筆者は“失われた保守”を探す旅に出た。

■鈴木哲夫(ジャーナリスト)


満開の桜の木々に囲まれた永田町。

4月なかば、国会議事堂のすぐ脇にある国会図書館を私は訪ねた。すでに絶版になった、ある本をじっくりと読みたいと思ったからである。
書名は『社会党との対話 ニュー・ライトの考え方』。著者は元首相の故・宮澤喜一だ。

同書が上梓された1965年当時、日本の政治は保守の自民党、革新の社会党という二大政治勢力が激しく闘い、文字どおり国論を二分していた。社会党がもっとも強かった時代でもあり、それを自民党が迎え撃つ構図だった。そのような中で宮澤は、「保守」について同著で次のように定義している。

「保守とは立ち止まること、立ち止まって考えることである」

この本を読むように私に勧めてくれたのは、明治大学政経学部の井田正道教授だった。
「保守という難しい概念を、これほどわかりやすく、こんなに平易な言葉で言い尽くした例はないと思う。宮澤さんの政治家としてのセンスと鋭さを感じる」
その宮澤によれば「革新」「保守」の考え方は、それぞれ次のようなものになる。

「(革新とは)現在ある社会に対して、なにかの疎外感をもっている人たちが、現状をつき破ればなんらかの改善が生れるだろう。つまり、まず現状をつき破るというところに重点をおく『考え方』である」

「(保守とは)ある不満を取り除こうとする結果、全体のバランスを崩さずに、その点だけの改善が可能なのか、あるいは、その点は改善されても逆に全体的には悪い効果が生れるのか―そこのところの見通しについてたえず考え、迷い、その果てに改革への決断をする場合もあるし、またしないですます場合もある」

こうした宮澤の論に触れて、私がもっとも驚いたのは、「保守」という概念が、守勢的な立場に拘泥するのではなく、むしろ「変えていくこと」「改革」を是としている点だった。

宮澤が説くのは、こういうことだ。
―合理性にのみ基づく改革には慎重であるべきだし、現状をつき破ることだけを目的とした改革は単なる破壊行為である。それに対し、保守が行う改革とは、立ち止まって考えつつ、必要に応じて実行していくものである。その時には、当然、過去の前例や伝統を考慮の基準としなければならないし、周囲の地域や人間関係に巻き起こす弊害も考えなければならない―。

私自身は、いわゆる「保守主義者」の思考の持ち主ではない。だが、宮澤の言うこの「保守論」には非常に強い共感を覚える。なぜなら、今の日本の政治にもっとも欠けている視点だと思うからだ。

小泉純一郎による構造改革は「合理性にのみ基づく改革」であった。また、「現状をつき破ることだけを目的とし」、既存の仕組みはすべて悪とみなして片っ端から変えようとしているのが民主党中心の現政権の真の姿ではないだろうか。だとするならば、今の日本の政界に「真の保守」と呼べる政党は存在するのだろうか。


ふ~ん・・・


まあ、ワシの考えでは・・・

『天壌無窮の神勅』を信じておるワシらみたいなんが保守で、皇室を廃止しようと企んでおる輩どもが革新じゃい!


(ワシに言わせたら、『天壌無窮の神勅』も知らんようなモンは、保守ではないわいや!・・・の~う!?)