香港ドール14 | 秘密の扉

秘密の扉

ひと時の逢瀬の後、パパとお母さんはそれぞれの家庭に帰る 子ども達には秘密にして

右隣の住人があの男なら家族は居ないのだろう。
差し入れられた粥を食べ始める。まだ暖かった。トレイにはみかんが二つとチョコレートも乗っていて嬉しかった。
男が独身なら、なぜ自分の住まいに引き入れないのだろう。部屋の中でわたしを繋いでおけばいいだけの話ではないか。

それはしたくないということなのだろうか。だとしたらそれはなぜ、なぜなのだろう。


夕刻男が来て食事が始まる。
「ねぇ、見てこんなに編み上がったの」
ショールは半分ほど編みあがっていた。
「やっぱり何かやることがあるっていうのは、良いねぇ」
男の反応は覗えない。


「この分だとすぐに編みあがっちゃうよ。ねぇ、そうしたらまた新しい毛糸を買ってきてくれる?ニューヤーン。
あと、時計も欲しいの。クロック。ボーン、ボーン、ボーン。分かる?
それからラジオ。えっと、なんていうんだっけ、ショートウエーブ?ジャパニーズプログラムが聞けるやつ」
男のため息が聞こえた。いろいろ要求されて閉口しているのだろうか。でもわたしだって閉じ込められているならできるだけ快適に過ごしたい。
どれぐらいこの状態でいるのか分からないのだもの。全部に応えてくれなくて良い。でも伝えなければ分からない。


「ドール」
久しぶりに呼びかけられる。食事が終わっていた。いつものように口を拭ってもらった後だった。


左手を取られて、その手にひんやりとした金属の硬さを感じる。
「ハーモニカ?」
急いで口元に当ててみる。反射的に吹いた曲は「ツィンクルスター」だった。
♪ド、ド、ソソ、ララ、ソ
この曲なら男は知っていると思う。
吹き終えるとなんだか嬉しくて笑ってしまう。男もきっと笑っているのだろう。
次の曲はと考えて「スワニー河」を吹いてみる。日本の歌じゃなくて、彼が知っている曲を吹いてあげよう。
これは一曲終わるまでに、たくさんつっかえた。「スワニー河」と分かってもらえただろうか。
「練習しなきゃね」と笑うわたしの頬に暖かい男の手が添えられて唇にかすかに触れる感触。


ドクン、ドクン、ドクン、
胸が痛い。ドクン、ドクン、ドクン、
喉が苦しい。ドクン、ドクン、ドクン、
ドクン、ドクン、ドクン。


時間がゆっくりと凝固していく。まるで私の鼓動が固めていくみたいだ。ドクン、ドクン、ドクン。
唇の感触はすぐに離れても、添えられた手は離れないで彼の手まで私の鼓動が固めているみたいだ。


ドクン、ドクン、ドクン。ドクン、ドクン、ドクン。
時間は短いはずなのに、なんと濃密に流れることだろう。


何か男に呼びかけたい。
男が私を「ドール」と呼ぶように私も男に対して呼びかけたい。


ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。
広東語で男の人を呼びかけるときなんと言っていたっけ、えっと…


「しんさん…」


後で分かったことだけれど、「先生」という漢字を広東語でシンサンと読むのだそうだ。だけど私はなんだかシンという名前にさんという接尾語をつけて呼んでいるような気持ちになっていた。


「しんさん…」
胸が苦しいよ…


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