山手線の車内はまだ空いてる。昨晩の会話を思い出すと、男の熱っぽい口調が微笑ましく思われた。ほんとに映画が好きなんだなぁ。あのあと、キューブリックの話はシャイニングに移って、恐怖の演出の話をしたのだった。双子の女の子が出てくるシーンで、男がダイアン・アーバスまで引いてきたので、私はもう面白くて切り上げる気にならなかったのだ。あぁ、ああいう話なら、いつまでもしていたかった。
>どんなに恋人が好きでも、ああいう話は彼とはできない。それがいいとか、悪いとかそういうこととは全く別に…でもできるなら…彼とそういう話が出来たらいいのに。違う、これから二人で一緒にそういう関係を創って行かなければならないのだ。それは分かっている。
>身体は自動的にいつの間にか自宅のある私鉄のターミナル駅で乗り換えていた。あんなに夢中になる程面白かった映画の話と、今朝の男の落差が現実というものだ。けれど私が身支度をしていたから、洗面所も使えなかったのだし、あまり情けなく思ったら気の毒だったのだ。
自分の降りる駅が近づいた。いけない、恋人が電話をしてきてはいないだろうか。バッグを探る。あれ?いつも携帯電話を入れて置くところにない。ジャケットのポケットを探る。ない。電車を降りてベンチで鞄の中を全部改める。携帯電話をどこへ忘れてきたのだろう。
映画が始まる前に電源を切って、例の中華屋で再び電源を入れたのは覚えている。だとしたら男の家だろうか。バックは深いタイプなので、転げ落ちる心配はないはずだ。もしかしたらタクシーの中…ほとんど走るようにして家に帰る。電源は入っているはずだ。もし恋人が電話を掛けてきて男が電話に出たらなんと説明するのだろうか。タクシーの中ならなんとでも言えるが。
自分のマンションまでの道のりがもどかしかった。部屋に着き電話に飛びついて、携帯の番号を押す。8回目のコールで、繋がった。無言だ。
「もしもし、あの私その携帯をどこかに忘れてきてしまって…」
「あぁきみか、良かった。他の人だったらどうしようと思っていたよ」
男の声だった。
「そちらの部屋に忘れていったんですか」
「うん、昨日誰かから電話があって、きみ何かを話していたよ」
多分恋人からの電話だった。変なことを話していないことを祈る。
「きっとその後でベッドの脇に落としたんだ。この電話どうしよう、きみ必要だよね」
「すみません、会社はどちらですか?昼…ダメだったら、仕事が終わってからでも…」
「じゃぁ、メモして080-XXXX-XXXXこれ僕の番号。きみの携帯は切っておくから。会社はね、神田なんだ。昼休み時間中に来られるかな」
「神田だと1時近くになると思いますが、行けても行けなくても連絡します」
「じゃ、待っているから、きみ名前なんて言うの」
「後藤です」
「後藤さんね、僕、佐々木といいます。じゃ、また昼に連絡下さい」
フックを押して通話を切り、今度は恋人にかける。
「あ、私、今大丈夫?」
「ああ、由佳里。昨日どうしたの、どっか泊まるって酔っぱらってたみたいね」
大丈夫だったみたいだ。
「そうそう、試写会で昔の友達にあって飲みに行ってそのまま潰れちゃったみたい」
「へー、珍しいじゃん、で何?」
「ああ心配しているといけないと思って、それだけ、また後で」
「うん、今日は早く終わるかな、夕方連絡する」
ややこしいことにならなくて良かったけれど、携帯の事を言いそびれた。なんとしても昼に携帯を返してもらわなくては。シャワーを急いで浴びてコーヒーを飲む。鞄の中に資料と納品のCDを突っ込み、彼の電話番号を手帳に写す。佐々木、さん…佐々木さんていうんだ。
男が名前も知らない誰かではなくなった。佐々木さんて、いうんだ…
オーバーラップ 7へ