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花は我が世界にして
草花は我が命なり
正岡子規「草花写生帖」より
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最初にお断りを一つ。ブログのタイトルを、元の「京都と花と文学と」に戻すことにしました。
今年の一月から、もう少し画像の更新を頻繁にしようと、「一日一花―京都花暦」とブログのタイトルを変えたのですが、
3か月ほどたって、どうも自分の性分として、あわただしく追われるようにして、画像を変えるのは合ってない気がしてきており、
事実、本業の方で締め切りに追われたりすると、2週間、3週間と更新を怠ってしまうので、これまで通り「京都と花と文学」の
タイトルに戻し、ゆっくりと落ちついて、四季花折々、花々の移ろいゆく姿を愛でていくことにしたいと思ったからです。花の方も、
その方が喜んでくれると思いますので……。
さて、お彼岸を前にして、今年の一月に亡くなった従姉の49日の法要が、北九州豊前市の従妹の家で行われるので、
ワイフ共々、4日ほど従姉の家に滞在し、法要を済ませてきました。
法要と納骨が済んで、時間に余裕ができたので、二日ほどかけて、豊前市西方の求菩提山から流れ出て、豊前市を貫流し周防灘に流れ込む岩岳川の崖の上(時代劇の名俳優、大河内伝次郎がこの近くで生まれています)や、隣町の築上町椎田の綱敷天満宮境内に咲く梅の花、さらには山あいの斜面に広がる菜の花畑、河津さくら、隣町の築上町内の蔵内家(炭鉱開発で財を成した蔵内次郎作が、明治36年に建てた大邸宅)の旧邸で展示されているひな人形などを撮影してきました。
どれもとても素敵な画像が撮れたので、順次、紹介していきたく、最初は、綱敷天満宮の梅花で、早春の真っ青な空を背景に、光る宝石のように咲く梅の花を、下から見上げて撮ったものです。
話は変わりますが、堀口大学の詩に「小学生」という詩があります。
先生
植物学は嘘ですね
樹木もやはり笑うのです
梅が一輪さきました
この詩を知ったとき、私は、「ああ、堀口大学もまた、花が笑ったり、喜んだり、悲しんだりすることを知っていたのだな」と思い、とても嬉しく、救われたような気持になりました。なぜなら、私自身もまた、花の写真を撮ることを通して、花が笑い、喜び、悲しむことを知っていたからです。
そうなのです、花たちは、私がカメラを向けると喜んでくれるのです。特に、普段あまり人が目を向けようとしない花とか、日陰になっているところに咲く花は喜んでくれます。そして、「私を、美しく撮って!」とポーズをとり、カメラのレンズのなかで精いっぱい、美しく変身してくれるのです。
ところで、堀口大学は、昭和9年「婦人公論」の2月号に寄せたエッセイ「梅の花と近代性」のなかで、梅の花の「近代性」について以下のように記しています。
やがてまた、梅の花咲く三月が来る。梅は、昔から、歌にも読まれ、詩に歌われ、吾等日本人の生活に、極めて密接な位置にあった
花の一つだ。その香気、その姿、いづれも吾等日本人に」愛されるに十分なものがある。その上、衆木に先だって花を開く。吾等の祖
先の優越感が、この花に彼等のサンボオルを見たこともさこそとうなづかれる。
梅見酒、梅法師、梅花笠、梅暦、梅壺、梅染、梅がさね、梅が香、梅が枝、梅見等々々の言葉は、どれも千年このかた日本人が、こ
の花に捧げた愛情の形見であらう。
堀口大学は、このように、梅の花が、日本人の千年来の美意識のなかで、欠かすことのできない伝統的、象徴的位置を占めていることについて、書き起こしたうえで、さて、現実に目の前に咲く梅の花をしみじみと見入ったものの、これらの梅に関わる伝統的言葉がどれも、自分のために歌ってくれないことに気付いたという。つまり、こうした言葉は、「あまりに古典的であり」、あまりに堀口自身から遠いところにある「過去の美であり、昔の美であ」ることで、堀口が眺めている眼前の梅の花から直接受ける感じとは遠いというのです。
だがしかし、目の前に咲く梅の花は、「溌溂とした生気があり、永遠の若々しさがあって、強く」、堀口の心に呼び掛けてくるのはなぜなのか。堀口大学は、そう考えてきて、「古いのは梅の花ではなく、その美を表したこれらの言葉に相違ない」と気づく。そして、堀口はそうした認識に立って、梅の花の「近代性」について、以下のように記す。
近代性。それは必ずしも、ラヂオや、ネオンサインのやうな、新しいものに許(バカ)りあるのではなくて、古くからあるものに向けられ
る。吾等の視覚のうちにもある。つまり近代性は、吾等の感覚の中にある。近代人が、正しく確実にものを見る時、そこには近代性以
外の何物もあり得ない筈だ。近代性、それは過去の人々が感じなかつた美を発見することではないだろらうか?(下線、引用者)
堀口大学は、このように梅の美をめぐって思念の道をたどり来たったうえで、眼前に匂う梅の花から受ける「私の美」を、詩に表現しようとして、上に掲げた「小学生」の詩を得たというのです。
「近代性、それは過去の人々が感じなかつた美を発見することではないだろらうか?」……堀口大学が生きた時代は「近代」であったが、私たち生きる時代は「現代」、それも21世紀の「現代」である。であればこそ、私は、21世紀に咲く梅の花の「美」を、21世紀を生きる人間の「目」で受け止め、写真という優れて「現代」的なメディアを通して表現していることになるわけです。
そうなのです、私は、21世紀の花鳥風月、山川草木を写し撮っているのかもしれません。21世紀の最先端の科学技術を駆使して作り上げられたカメラという、人工の「目」を通して……。
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