「日本では政治的発言をすることができない」とよく言われているが、この場合の「政治的発言」とは政治というより宗教的なものが多いのではないか。
それは別に宗教を支持母体に持つ某政党のことを言っているのではなく、ネトウヨやあるいは安部アンチのリベサヨ達のことだ。
彼らが話しているのを見ると「あっ……(察し)」という気持ちになるが、それは「政治的発言」を見たからというより「そういう宗教の人ね」としか思わないからだ。
これは別にそういう人達の頭が悪いからではなく、構造上の問題だと思う。
日本はかつて「一億総中流」と呼ばれ、皆が同じ階層にいるとされていた。
同じ階層、同じ人種であれば政治的対立は生まれにくい。
一億総中流の幻想が崩れた今でもその気分は変わらない。
そうなってくると「どの立場を支持するか」ではなく「どの党なら信じられるか」という条件で人は投票することになる。
その結果「民主党に任せると国が滅びる」だったり「安倍のせいで日本が滅んだ」みたいな言説が飛び交うことになる。
これらは「政治的な発言」というより「宗教的」なものではないか。
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元民主党支持の僕は、前回の衆議院選挙では何処に投票するべきなのか迷った。
政権交代可能な保守政党を作るためにポピュリストの小池百合子と組んだ「希望の党」と、自分達の信念を通すために左に向けて舵を切った「立憲民主党」という究極の二択を迫られたからだ。
そういった意味では今回は何の迷いもなく国民民主党に入れることができたが、得票数は少ない。
反対しかできない野党はダメだが、逆にあまりに対立点がなければ「じゃあ自民党で良いじゃん」となってしまい支持を得られることができない。
国民民主党には「何故自分達でなければダメなのか」という対立点をもっと打ち出して欲しい。
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僕らの世代は「改革」が大好きだ。
少年時代を小泉政権下で過ごし、「構造改革なくして成長なし」「改革には痛みが伴う」という言葉を聞いて育った。
90年代の腐敗しきった自民党政権も経験しているので、何となく「変えなきゃいけない」という気持ちも持っている。
フィクションでは『DEATH NOTE』や『コードギアス』が流行った。
これらの作品は「バトロワ系」の一種と言われているが、この二作品の本質は「世界を革命する」という話であることだろう。
「世界は腐りきっている、だから変えなくてはいけない」これが90年代~00年代を生きてきた僕らの世代の感覚だと思う。
これが一つ下の世代になるとまた違ったものになる。
汚れに塗れた90年代を経由せずに00年代~10年代に少年時代を過ごした人にとって世界は作り物だらけの「お花畑」だ。
しかし、その「お花畑」はもう維持できないとも気が付いていて、だからそれを守るために戦わなくてはいけないという意識がある。
これが安倍政権的な感覚で、「日本を取り戻す」という感覚だ。
フィクションでは『進撃の巨人』や『魔法少女まどか☆マギカ』がこの時代感覚を表してると言えるだろう。
若い人ほど自民党の支持率が高いというのはこの感覚故にだ。
彼らは少年時代に崩壊した民主党政権を経験しているので、民主党こそがまさに「お花畑」に見え、それを打開した安倍政権が救世主に見えるのだ。