「無敵の人」は2008年にひろゆきが作った言葉だが、京都アニメーション放火事件によってこの言葉が再びまた注目されている。

よく誤解されがちなのが「無敵の人」が貧困問題なのかということだが、「無敵の人」は多くの場合貧困ではあるがそれだけでなく「お金もない」「友達もいない」「恋人もいない」「趣味もない」「仕事もない」「生きる意味もない」と言った全てが「ない」人なのだ。

貧困、というだけであればお金がなくても仲間や家族と地元で楽しく過ごしているマイルドヤンキーや趣味に熱中しているニートもたくさんいるだろう。

逆に友達や恋人がいなくても、仕事やお金があればそれを糧に一人で生きていけるかもしれない。

無敵の人と言うのはそれら全てが「ない」から問題なのだ。

 

 

何か事件があると社会の問題だと論じたがる人間は多い。

もちろんその要素がないわけではないが、加藤智大も青葉真司も家庭環境が悪かったのが全ての元凶だ。

家庭環境が悪いと子供は他の人と同じことが出来なくなってしまう。

そうなると学校でも浮いてしまい、家庭だけでなく学校でも居場所がなくなる。

また、そのような家庭ではテレビや本といった娯楽も与えられないことが多く、そのため「外」の世界に繋がる回路や想像力も作ることが出来なくなる。

そういった人間がそのまま大人になっても何者にもなれないのは当然のことだ。

この問題を「貧困」の問題として片付けてしまうのは間違っていると思う。

彼らに必要なのは外の世界と繋がるための回路だ。

 

 

加藤智大と似たような家庭環境だった僕はやはり中学生の頃学校に居場所はなく、インターネットでも「荒らし」に近い状態になっていた。

その結果疎まれたりもしたのだが、しかしそれでも僕の周りに集まってくれる人も中にはいた。

当時の僕は性格的に問題はあったが、それでもその中に魅力を感じてくれた人もいたのだ。

それは、当時の僕が年齢にしては本を読んでいたり、そういうところから来ているものだったと思っている。

やはり本を読んでいたら怒られるような家庭環境ではあったが、それでも人目を盗んで読んだりしていた。

もしそういう積み重ねがなく、当時単なる「荒らし」として疎まれるだけで終わっていたら、僕もそのまま加藤智大のようになっていてもおかしくなかったと思う。

孤独から脱するためには結局のところ「友達」や「恋人」を作る必要があるのだが、友達や恋人というのは共通の感覚によって作られるものだと思う。

それは趣味が合う、話が合う、生活感覚が合う、好きな音楽が合う──何が理由になるかはわからない。

普通の人にとってはくだらないものでも、この広い世界のどこかにはそれを好きな人がいて、そういった人と出会えればその人と友達になれるだろう。

インターネットの登場によってそういったマイナーな繋がりを作ることも容易になった。

しかし、「何もない」無敵の人にとってはそういった人と繋がれるものが「何もない」のだ。

だから、僕は「無敵の人」に対する処方箋は「何かを手にすること」しかないと思っている。

今は孤独かもしれないけど、何かを手にしていくことによって少しずつ「自分」を作っていき、その結果いつか友達もできるかもしれない。

そうやって生きていくしかない。