年度末、話題になりがちですね。橋下知事がいる大阪では特に話題になっているようです。


私の意見は賛成。胸を張って歌います。何でって、だって国歌でしょ。
そんな浅い考えで論じられては困るというご意見も結構。そもそも論で云々と言っていただいて結構。でも私は歌います。国歌だから。


もしも、もしもですよ、私が何らかの理由で国の代表として世界の舞台に立ったとしましょう。そして表彰台に立ったとしましょう。そこで世界に向けて国歌を歌わないなんてそんな恥ずべき行為は考えられない。


その国歌を歌わない、認めないとする人は周りにもちろん自分の主張をするでしょう。そして、もしも、もしも周り、いや日本中を説き伏せてその考えが広まったとして、その次にどうしたいのか。国歌のない社会をつくりたいのでしょうか。

それだけ?

格好わるぅ。


どんな小さなことでも、今あるものに反対する人は居るものです。
私がいつも思うのは、じゃ代替として何かを用意してから言ってほしいということ。

例えば君が代への反対意見が大きくなり、じゃあ君が代をやめてわらべ歌の「さくらさくら」を国歌にしましょうとなったら、私はさくらさくらを歌います。だって国歌だから。
私は「国歌」というものが必要と思っているわけで、それが今は君が代だってことだけです。
先と同じですが浅はかな考えであると非難してくださって結構です。


君が代についてわあわあ反対だけを言っている人のほとんどは知っているはずです。それがかなわないことだと。自身はマイノリティであると。大勢の中で反対意見を言うことで自己の存在を主張しているのだと。


そんな奴は放っときゃいいんです。



iPhoneからの投稿

 今年度保育所の保護者会会長を務めたこともあり、文書に「こども」について書くことがしばしばありました。その際には「子ども」と書くように心がけていました。

 これは漢字で書ける言葉をわざわざ平仮名を混ぜて書く「混ぜ書き」と呼ばれる書き方です。なぜこうして書くのかと言うと「供」には従者のイメージがあって良くないとか。テレビの放送では近年「子ども」の表記が目立つようになりました。そして保育所でも先生は「子供」と表記することは無くなってきています。だったら「こども」と平仮名でいいじゃないかと思ったりするのですが。
 私個人としては「子供」の表記で差支えないと思っていますし、個人的な文章を書く際には子供と書くでしょう。そもそも「ども」は複数を表す接尾語ですが、「子供」はすでに1つの単語として認識している人が殆どと思います。「子供達」と表現することは本来の意味から考えれば複数を表す言葉が重複していますが、違和感なく使っている方が殆どでしょう。だから世間一般に広まっている「子供」と表記することになんの問題もないと考えています。
 じゃあ「子ども」と平仮名で書くことはどうなのかと考えてみると、複数を表す「供」はむしろ平仮名で書かれることの方が多いと思います。馬鹿ども、野郎ども、アホども、と。「ども」が漢字で書かれることはそうそうありません。そして「ども」は往々にして悪いイメージで使われているようです。そう考えると「子ども」と書く方がむしろ侮辱を与えているように感じます。

 でも私は先に書いたように、保育所の文書には「子ども」と書いています。それは先生がどうお考えになっているのか分かりませんが、保育所がそうしているから合わせている、ただそれだけです。

 この風潮は「子供」と書くことに異議を唱える人がいるからなのでしょうが、それにテレビや公共の媒体が合わせ過ぎなんじゃないかな。
 今こうして文章を打っていても、「こども」を変換すると「子ども」も候補にあがってきます。もうそれだけ常識と化してるのでしょうか。


 おまけ

 「障害者」についても最近は「障がい者」と表記されることがまかり通っているようです。でもこちらに関しては私はむしろ同意します。元々の漢字は「障碍者」だったのが「碍」の文字が当用漢字になかったため「害」を当てたんだそうです。「碍」と「害」は全く意味が異なる文字。確かに「害」はいいイメージがありませんね。
 でも混ぜ書きはあんまりおもしろくないなあ。新しい表現はないものかな。

 「覚醒剤」を「覚せい剤」。これも良く見ます。これは何でかな?「醒」は覚めるという意味。目覚めという言葉は前向きなイメージを感じます。人名漢字として認められているので名前に用いている文字が感じの悪いイメージを持つ「覚醒剤」という言葉に出てくることを配慮してのことなんでしょうか。



iPhoneからの投稿
今朝職場に到着すると、ロッカー近くのテレビで福島原発2号機の温度上昇は温度計の故障によるもの、とニュースで流れていました。ここ数日「温度上昇」「再臨界」と情報サイトやTwitterでそのような情報を聞いていたので、少しほっとしたのです。それと同時にTwitterで「キセノン検出」という情報もちらほら目にしていました。
キセノンが検出されていたとしたら再臨界の可能性も否定できません。温度計の故障であれば実際のところ温度が上がっていないか保証は出来ないわけです。テレビの前でちらっと聞いただけだったので2号機の温度についてもっと詳しく報道されていたのかもしれませんが、そこははっきりと確認しないままデスクに向かいました。

その途中Twitterにこう書いたのです
「温度計の故障?でもキセノンは検出されたんでしょ?」
と。それは思ったままの言葉、まさにつぶやきです。

しばらくするとある方からリプライが帰ってきました。
それは東電のHPを見なさいというもの。HPの情報を見たり、ネットでキセノンにまつわる情報を検索したりしてその情報が正しいのか確認してみました。
どうやらキセノンは検出されていないようで、私がTwitterで見たのはキセノンという単語が確かに出てくるものの、それは昨年11月の情報であり、それを利用し温度上昇の報道に便乗したデマだったようです。
それはそれで安心しました。

でも私の気持ちの中では、政府、東電の発表の信頼度は薄らいでいました。
加えてリプライで指摘していただいた方の情報を見るとツイート数もまだ少なく、フォロー・フォロワー数もわずかです。プロフィールも書いていない。
そこでちょっと私もリプライを返してみました。
(以降ツイート画面そのままを貼り付けます。そそくさとツイートしたので誤字脱字ありますが、そこはご勘弁)

$考えるな、感じるんだ。ケロケロ♪

まあ、ちょっと上から目線に感じたので、こんなふうに返してみたのでした。
おそらくまたリプライがくるのだろうなと思ったので、その間に彼のツイート履歴を追うとまあ言葉使いが酷いこと。
私にくれたリプライは彼のツイートではかなりましな方だったようです。

$考えるな、感じるんだ。ケロケロ♪

私も人間です。ちょっとむかついたのでこんな風に返したりもしたり。
するとソースを出せと言う。彼へのリプライにも書いてますが私が使ったソースは彼の言ったものを指していたわけですが言葉足らずだったようです。
それに今回私勘違いしていたTwitterでの情報は流れ行くもの。その元情報を提示して、この情報で勘違いしたのです、なんて言いたくてもそんなの辿れません。

$考えるな、感じるんだ。ケロケロ♪

すると今度は謝罪を求めてきました。
え?俺謝んなきゃいけないの?

$考えるな、感じるんだ。ケロケロ♪

するとこのような返信が来ました。あらためてソースを出せという。
ちょっと困った。そんなのどっかに流れてって知らないよ。
それにこのやりとりの始まりは私のちょっとしたつぶやきです。
あの程度のつぶやきでそんな絡み方されたら、みんなTwitterなんて怖くてできなくなってしまいます。
そして議論しようと言っていますが、彼のツイート履歴を見る限りひどいものです。このような話に「ww」とか多用する時点で相手を煽ってるだけで、彼には議論するつもりなど無いのです。極論で言えばジコマンの世界です。

なのでこの時点でやり取りをやめにしました。私にとっても何のメリットもありません。
私が思うに彼は多分正義感にあふれているのだと思います。決して悪い人ではないと思う。
でもその気持ちが先走りすぎてるのでしょう。

彼はこう書けなかったのでしょうか。
「あなたがおっしゃっているキセノンの検出は昨年11月の情報です。東電の発表によると炉内の高温の検出は温度計の故障によるもので誤りです。キセノンは検出されていないのでデマには注意しましょう。」
そうやって勘違いした人に忠告するだけでよかったはずです。


このブログのタイトルは「絡み絡まれ」です。
今回は絡まれた、と言えるのですがこのタイトルにしたのは、実は私も過去にある人にTwitterで絡んでしまったからなのです。
細かなことは私を前からTwitterでフォローしている方はご存知だとおもうのですが、ある人のツイートが私の人生における幸せの考え方を真っ向から否定する考えの持ち主でした。
そんなツイートを目にする度に反論のリプライを返したものです。
彼には彼の考え方があって、私の反論にも応えてくれました。でもそこは元々お互いの幸福感に認識の違いがあるもの同士です、意見は平行線のままに終始します。
彼の発言(ツイート)には納得いくものもあります。むしろその多くは共感できるものであったと思います。でもある時点で私の中にも変化が生まれるのです。自身の考えに基づく発言のはずが、いつしかその人への単なる天邪鬼に変化していってしまうのです。
そしてある日、彼に対して良い印象を持つことが困難になり酷いことを言ってしまったのです。それは今でも私の人生において良くないこととして深く反省しています。

人とは弱い存在ですね。