忘れた頃に投稿する、どうもカミゴリです。

 

今日は、わたくしの新しい『将来の夢』ができましたんで、僭越ながらそちらについて語らせてもらおうかと思います。

 

にしても、良い時代ですね。(天皇家に生を受けない限り)職業の自由があり、情報過多の時代も相まって、パソコン一台で様々な職業について知見が深まります。このあいだYoutubeを流し見ていたところ、『葬儀屋』という職業があることを知りました。恥ずかしながら初耳であり、世間の広さ、いや自分の知識の狭さに驚かされました。勿論ご遺体が勝手ながらに焼かれるわけはありませんし、数年前にも曽祖母がお世話になった際もどなたかが焼いてくださっていたんですよね。日本の労働人口はおよそ6800万人ですから、当たり前ですが様々な職があります。わたくしが意識していない場所でも、必ず労働が発生し、社会は回るわけです。当然のことを垂れ流しましたね、すみません。

 

さて、私の最新版の夢は、『日本語学者』です。『おんどれわざわざアメリカで中高等教育を受けてきてなぜにそんな仕事なんや』と思われるかもわかりません。わたくしもそう思います。ですが、これにもわたくしなりの考えがあるんです。

 

ブロガーの皆さんであれば、長文を書くことに対してはそこまでの抵抗はないものかと思います。小生も、二千字以下の、ノンフィクションの自分の意見や事実の羅列であれば特に苦なく書けるようになりました。

先日、小説を書いている旨をお伝えしました。そこで新たに悟ったのは、小説とブログは難度の桁が違います。月と鼈『以上』です。

 

私の語彙力の欠如も否めませんが、それ以上に『読み手に羅列された以上の感情を乗せられる文章』を書くことというのは、骨が折れます。特にわずかなニュアンスの違いで受け取られ方が変わってしまい、それが小説における情景を一変させてしまうのです。

例を挙げると、骨張る指を表現するときに、『ゴツゴツ』を使うか『ごつごつ』を使うか。些細な違いですが、同じ言葉でもこれだけのニュアンスの違いがあります。

また、私の小説では本能と理性の衝突、そしてその葛藤が『一人称』で描かれる情景が何度もあります。その際に、脳内のセリフを増やしすぎると『状況の真剣さ』『緊迫感』が薄くなり、かといって減らしすぎると『主人公の葛藤が伝わらない』という問題があり、起用にその間を縫う様にして筆を進めばならない、という『筆者の葛藤』とも格闘せねばなりません。

 

そういった執筆をしていると、ぶつかるのが『言語』の壁です。さすがは一千年以上の歴史ある言語、様々な表現方法があることを知ることになります。類語を調べまくると、知り得ないような概念や表現に出会うことができ、それもまた楽しいです。

そういった経緯もあり、最近は日本語という言語がとても興味深く思えます。

 

とはいえ、言語学者でおまんまにありつくのはまず不可能です。研究室での熾烈な競争を経て教授になれるのは一握りです。とはいえ、研究職でないと、名実共に『言語学者』になるのは難しいでしょう。

 

そこで、私の新たなる野望が生まれたわけです。大卒後30年で稼げるだけ稼ぎ、60手前でアーリーリタイヤ。その後大学院で言語学を専攻し、余生を日本語に捧げる、といったプラン。もはや取らぬ狸の皮算用の権化の様ですが、妄想するのは烏の勝手です。せいぜい夢を見られる年頃のうちに見ておこうと思いまして(苦笑)。

 

私の名前が学術誌に載る日を気長にお待ちいただければ幸いです。

 

なんとものらりくらりとした文章でしたが、広げた風呂敷に負けない様に勉学に精進してまいります。

 

では今回はここいらで!

 

カミゴリ