文久と明治のコレラ | よしのおもちゃ箱

文久と明治のコレラ

 安政5年(1858)から流行したコレラは翌年に一度収束の兆しを見せる。しかし三年後の文久二年に再び江戸で大流行した。テレビドラマにもなった村上もとかさんの漫画『JIN―仁―』(集英社)の早い段階のストーリーとしてコレラとの闘いが描かれているが、この物語に登場するコレラは文久2年のもので、両国橋に棺桶が百棺通るたび(百人の死者が確認されるとの意味)に橋の欄干を洗ったが何度洗っても追いつかなかったとの伝承が残るほどの規模だった。文久2年といえば寺田屋事件や生麦事件を薩摩藩が起こし、土佐勤皇党が京の実権を握ったときである。
 また彦根藩では長野主膳らが処刑される彦根の獄も起こっていて江戸庶民が注目されることはない。このため彦根藩が文久のコレラに関わることはほとんどないが、安政のコレラ同様に全国に広がっただけではなくその死者の数は安政の比ではなかったとも言われている。


 そして明治維新。明治10年(1877)西南戦争の前線でコレラが発生。兵士たちを通して全国に拡大する。その後も明治十年代に何度も感染を引き起こす。明治12年の滋賀県での感染記録によれば医療施設仮設のため寺社などの公的接収・患者家族の一週間外出禁止・発生市区町村の住民の旅行禁止と交通手段の閉鎖・生活困窮者への援助金支給などが行われた。それでも半年の間に県内だけで六百人近くの人が亡くなっているのだ。


 1883年にロベルト・コッホがコレラ菌を発見し治療法が見つかったことと、水がきれいであることがコレラ予防になることが判明し、日本の水道が近代化されてコレラ発症は極端に減っていく。特に近代水道の整備において必要となるバルブについては、仏具の錺金具職人だった門野留吉が信州の製糸工場を経営する知人から蒸気ボイラーのカランを注文されたことから事業を広げ彦根バルブが作られるようになり地場産業の一つとなる。彦根がコレラ抑制に活躍しているのである。
 こうして、幕末から明治にかけて世界中を震え上がらせたコレラはパンデミックの可能性が低い病気へと変わったが、世界史上はこののちも何度も深刻な病が流行し人類と闘い続けることとなる。

 

 3月に『幕末のパンデミック』と題してコレラによって井伊直弼の思惑が外れてしまったことを紹介した時点で、4月は文久と明治のコレラと終焉を紹介する予定ではあった。だが先月、私はこの記事が皆様の手許に届く頃にはパンデミックも終息しつつあると予想していた。その予想に反して安政・文久のコレラ同様に数年単位での流行も懸念されつつある。
 新型コロナの感染はなお拡大している。原因を追究し批判するのは今稿のテーマとは異なるため論じることは避けるが、過去に学び新しい糧とする「温故知新」という言葉を真摯に噛みしめなければならないと思っている。

 

門野留吉翁頌徳碑 / 明性寺(彦根市本町3丁目3-56 )